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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(43)

 

 体育館の裏で、その悪名高い不良と二人きり。このシチュエーションは私の危機感を募らせたが、しかし、それ以外にも気を取られることがあった。

 うちの学校はそこそこ大きい。そしてスポーツは盛んだった。体育館は二階建てで、二階は普通の体育館だが、一階は柔道場や剣道場、その他二つほど畳と床板の練習場、そして普通のアスファルトの部分は雨が降ったときのグラウンドを使う部活の練習場にもなる。

 体育会系の部活が多いものだから、皆部活は譲り合って練習をしているが、それでも足りない部分は、やはり結果を出す部の方が強い。私達の空手部はまだ一年目で、どうしても練習場を優先的に使う、というのは無理だ。まあ、その点は先輩ががんばってくれているので、少しは改善されている。

 しかし、そのときはまだ、空手部はなかった。だから、先輩はどこの練習場も使うことが出来ずに、外で練習をしていたのだ。

 二階の体育館を支える太いコンクリートの柱の一本に、サンドバックがくくりつけられていた。もちろん、それは吊されている訳ではないので、殴ったからと言って動く訳ではない。くくりつけているものはコンクリートの塊なのだから、衝撃が逃げることもない。

 まさか、あんなもので練習するの? と自分の身の危険を置いておいて、私はまさか、と思っていた。つか何で不良の癖に柔道着よ、形から入るタイプなの? などとけっこう心に余裕すら生まれていた。

 兄が友達の家でサンドバックを殴ったら手首を痛めた、と言っていた。そんなものを買う友人がいるのか、と聞くと、その友人も買ったはいいが使っていないらしい。バカね、と私は素直な感想を兄とその友人に送っておいた。

 兄がひ弱、という訳ではないので、サンドバックを殴るのは危ないことなのだ、と私はそのとき知った。いや、別に殴ることが一生ないとは思っていたので、単にそういう知識が頭の端にあっただけなのだが。

 考えてみればそうだろう。砂というのは、あれでけっこう硬い。子供のころ、砂場で転んでお尻がけっこう痛かった記憶もある。それはコンクリートの上で転ぶよりはいいのだろうが、それでも本気で殴ればその衝撃は相当のものだ。

 そんなものを、こっちは本当に衝撃を逃がさないコンクリートにくくりつけて殴る。これはない、と素直に思った。

 しかし、その不良、いや、先輩は不良ではないのだけど、不良と思っていた男子は、まったく躊躇なく、拳を上に構えた。兄が年末になると見ている格闘技の試合でも、あんな構え方をしている選手はいなかったような気がする。

 殴る、というよりも、つり革を持つぐらい腕があがっていた。まさに恰好としては相手を威嚇できるのかもしれないが、まったくの素人が見ても、強そうには思えなかった。

 しかし、私が色々と状況や服装や構えや何やかんやにつっこみを入れるのも、ここまでだった。

 先輩の気合いを入れた声は、私の耳には入って来なかった。いや、入ってはいたのだろうが、私の頭は、それを処理しなかった。

 まるで天に向かって拳を打ち出そうとしているかのような高い構えから、相手の真ん中に向かって、一直線に打ち下ろされる、まったく無駄のない拳の動き。

 サンドバックに、その拳は躊躇なく叩き付けられ、私には、相手の胸の中央に打ち下ろされた拳が、相手の身体を一撃でくの字に折り曲げる姿。それがはっきりと見えた。

 中谷君にその話をしたら、それは見稽古でもかなり高等技術で、才能ありますよと言われたが、もちろん話半分にも聞いていない。きっと、それは私の才能などでなく、先輩の拳があまりに凄かったからだろう。

 それが、おそらくは本当に人に向かって繰り出される拳であることを私は直感していた。先輩の動きに直感させられた、という方が正しいのか。夜な夜な街でケンカしていたというのも嘘ではなさそうだし、五人相手に勝ったというのも本当だろう。

 それだけを理解させられてもなお、私は思わずつぶやいていた。

「綺麗……」

 今まで、感動したのはお涙頂戴のドラマぐらいだった。それだって、一分も保たないし、泣くほどではなかった。感受性の高い子供ではなかったのもある。身が震えるような感動など、普通に生きていてそうするようなものではないだろう。でも、私の心はマグニチュード7.5ほども打ち震えていた。いや、そんなちゃかす言葉は、ここでは似合わないかもしれない。

 感動していた。知らず、涙が流れていた。何が自分の琴線に触れたのか分からないが、先輩の打ち下ろしの正拳に、私は心震わされた。

 その言葉で、私に初めて気付いたのか、「おや」と先輩は私を初めて視界に入れた。

 不良など、とんでもない話だった。その姿には、中学のころにすらいた不良達の、あのだらしない濁ったようなものはまったくなかった。背筋は伸び、目には生気が満ちあふれ、力が体中からあふれ出ているようにすら私には見えた。

 というよりも、もうそんなことなど、何も私には考えられなかった。

 先輩と目が合った瞬間、ドクンッ、と脈がより一層大きくなるのが分かった。しかもそれは、まったく衰える様子もなく、私の中で波打ち始める。

 私は何を話をするのかも考えずに先輩に話しかけていた。正直、あのときに何を話したのかほとんど覚えていない。どういう経過を通ったのか、先輩が空手部を作りたいのだが、部員を集めないといけないという話をして、私が一も二もなく部員になる、と言った部分ぐらいは覚えている。

 いきなり見ず知らずの女子生徒が新しい部を作るのに部員になってくれる、それにまったく疑問も何も感じない、邪気のない先輩の喜ぶ姿が、私は自分のことのように嬉しかった。

 俗な言い方をすると、一目惚れだった……後で分析すれば、先輩の打ち下ろしの正拳には本当に感動したが、不良に対する危機感をそれに上乗せしてしまい、それをさらに恋と勘違いした、吊り橋効果だったと説明することも出来る。

 でも、先輩の練習風景ならばいくら見ていても飽きないし、今更、この気持ちは偽物だと言われようがどうしようが覆せないものになっている。というか、一緒に部活をしているだけなのに、余計に先輩に熱をあげている自分がいる。

 先輩以外は、だいたい皆私が先輩を好きなことを知っている。先輩は……まあ大物だから細かいことは気にしないからと友達に言ったら爆笑されたが、事実だから仕方ない。

 皆には趣味が悪い、と言われる。恰好良くもないし頭がいい訳でもないし運動は出来るようだが、街でケンカするような人間と付き合ってろくなことはない、将来性などないではないか。その言い分も分かるが、先輩の戦う姿は何よりも私には恰好いいし成績は悪くない人だし、今は街ではケンカをしていないのだ。しかし、それはあくまで私が思うことで、言い返しもしなかった。先輩が言い返すことを嬉しがるとも思わなかったからだ。

 だからこそ、私は嬉しいのだ。先輩がエクストリームの本戦に出るようになって、ぱたりとまわりからその手の言葉がなくなったことが。

 空手で言えば全国大会に出場するようなものなのだ。結果は他の何をも黙らせる。私だって、先輩がそう言われて悔しくない訳がなかったから、余計に嬉しかった。

 急激に有名になっていく先輩だったが、それでも、ポジション的には、私はなかなかいい位置を手に入れたのだ。他に女子部員もいないし、そもそも、先輩は女の子と仲良くなろうなどとは爪の先ほども思ってなさそうで、敵はいないと思っていた。

 いや、多分敵ではないのだろう。先輩は、本当に格闘技が好きだけれど、それ以外のものをそこに混ぜたりしない。

 坂下さんは、女性なのに先輩を拳を持ってあしらうことの出来る、私から見れば超人だ。先輩が坂下さんを慕っているのも分かっているが、しかし、それはあくまで強いからで、男であろうと女であろうと、先輩には関係のない話なのだ。

 しかし、それでも妬けてしまうのは、どうしようもない話だった。これで坂下さんが少しでも気がある風を装いでもしたら、私も冷静ではいられなかっただろうが、幸い、先輩は坂下さんの男性の好みではなかったようだ。嬉しいような、悔しいような、複雑な気持ちだった。

 ある意味安定している現状に、私はけっこう満足もしている。この合宿でも、多分進展はしないだろう。先輩には、女の子を相手にしているような暇はないなどと今時聞いたこともないような死語が出るほど、先輩には女の子が必要ない。

 夏休みは、これが終われば後はずっと本戦まで練武館の館長につきっきりで指導されるらしい。先輩が色々なものに認められるのは嬉しいが、一緒に練習が出来ないことは、やはり寂しい。

 だから、先輩に料理を作って倒れるのは、むしろ本望だった。心配させたのは心苦しいが、心配されるのも感謝されるのも嬉しい。願わくば、この合宿の間ぐらいは、先輩の為に無理をしても、許してもらえるだろうか?

 だったら、今は休んでおかねばならない。夜になれば、また自分の出番も来るだろう。先輩の食べっぷりは、作る方としても楽しいのだ。

 そう思いながら、襲って来た睡魔に、私は身をゆだねた。

 

続く

 

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