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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(44)

 

 羽民と話していた時間は、三十分は超えて、一時間には満たなかっただろう。しかし、お互いにその気があるのなら楽しく話すのには十分な時間だった。

「あ……もうこんな時間なのか」

 かざりっけのない、どちからというと実用第一のダイビングウォッチを見て、羽民は残念そうな顔になる。

「ごめんね、藤田君。私、そろそろ行かないと」

「ああ、俺もそろそろ行かないと……正直怖くて帰れないんだけどな」

「ん? 怖い?」

「あ、ああ、こっちの話だから気にしないでくれ」

 綾香から逃げれたのは僥倖だが、帰ったら余計に酷いことになりそうだ。何せ綾香は負けず嫌いで、すでに浩之をおっかけた理由も忘れて逃げ切られたことに怒っている可能性すらあるのだ。どっちにしろ救いがない。

 羽民は、それでも浩之が帰りにくいことに気付いて、くすりと笑う。やはり、笑った顔は人好きのする愛嬌のあるものになる。

「私もあまり帰りたくはないけど……責任もあるし、そういう訳にはいかないわよねえ」

「いや、俺のはどっちかと言うと身から出た錆というか」

 羽民と知り合った理由が胸ならば、綾香から逃げだしたのも胸だったりする。そんなに大きい胸が好きか浩之。いや、もちろん男であるならば、逃れることのできない本能であるので仕方ないのだが。

 ちなみに葵は胸が大きいとは決して言えない、それは成長している今でも言えないが、綾香は間違いなく巨乳だろう。そもそも腰が細すぎるというのもあるが。胸の脂肪がなくならないのにお腹の脂肪だけなくなるのだから、相対的に大きくなるわけで、実にステキな話だ。

「うーん、それを言うと、私の方も私の責任と言えるかもね」

 苦笑する顔は、さすがに愛嬌があるとは言えなかった。しかし、どこかわだかまっていた暗いものは、だいぶ薄らいでいた。浩之は、敏感にそれを感じ取ってほっとしていた。

 女性が困っているのを放っておけない浩之のそれは病気のようなものだが、病気だからこそ浩之には豊富な経験があった。無理なものから簡単なものまで、浩之は幅広く、自分の身も顧みずに戦ってきたのだ。

 その経験から言えば、結局物事は根本をどうにかしなければ解決はしないことと。

 根本を解決しなくとも、気分転換やストレスの発散が出来るのならば、それでも効果はあるということだ。

 浩之は、そのあふれ出る才能と力を遺憾なく発揮して、無理難題を解決して来たが、普通はそんなことは出来ない。根本が解決することなど本当にまれにしかないのだ。

 そして、解決はしなくとも、気分が変わるだけである程度、少なくとも深刻にならない程度にましになることは案外多い。

 羽民は、浩之と話をすることでだいぶ気分転換になったようだった。そう多くのことを出来る訳ではないと自覚していた浩之にとっては、羽民が少しでも元気になれば、それだけでも救われる気持ちになった。

「ま、言ったところで仕方ないよな。覚悟を決めて帰りますか」

「そうね、年下の藤田君が覚悟を決めるのなら、お姉さんとして無様な姿は見せられないか」

 羽民は楽しそうに笑うと、浩之に手をあげた。

「じゃあ、ね。藤田君」

「ん、じゃあ、羽民さん」

 自分に出来ることはこれまでだ、と浩之は思った。これ以上は、浩之がある意味本気になってしまう。それも悪くない、と思っている自分を叱咤して、浩之は背を向けようとした。

「……あの、藤田君」

「ん?」

 羽民は、少し名残惜しそうだった。それはやはり何か問題があって帰るのを躊躇しているのか、浩之ともう少し話したいと思っているのか。

 どちらにしろ、この出会いは単なる偶然であり、羽民には羽民の、実際に進まなければならない日常というものがあるだろう。

「……ううん、何でもないのよ。じゃあ、また縁があれば、会いましょう」

「ああ、縁があれば」

 お互い、名前を名乗っただけ。今時であれば携帯番号ぐらい聞いておけばいいものだが、浩之は絶滅種とも言われる携帯を持たない日本人であり、自分から聞く、という選択肢も思い付かなかった。そもそも、浩之は今まで積極的に女の子の電話番号を聞いたことなどない。

 少しだけ憂いの表情をして、それでも明るく笑ってから、羽民は浩之に背を向けた。やはり、その笑顔は非常に人好きのする、かわいいものだった。

「……よし、帰るか」

 思ったよりも、羽民の足取りは軽そうに見えた。少し、ほんの少しだけ交わった縁だったが、少なくとも、その出会い分ぐらいは浩之は役にたてたようだった。

 ……これで、出会いがあんなのではなければ、恰好ぐらいはついたのだろうが。何せ、胸である。今のご時世、修正が入るぐらいに見えていたのだから、浩之はもっと働いてもいい。

 締まらないことこの上なかったが、浩之は羽民が向かった方向とは別方向、海水浴場の方に歩き出した。お腹もすでに落ち着いており、そろそろ午後の練習をする時間だった。綾香が怖いからと言って逃げ回っている訳にもいくまい。

 とは言え、警戒は怠らない。綾香のことだ。逃げた浩之に容赦とかするとは思えない。警戒は結果的に無意味にはなるが、それでも倒されるにしても、致命傷と全治半年であれば、後者の方が、気持ちましなような気もすることだし。

 海水浴場に近づくに従って、浩之の緊張は嫌がおうにもあがっていく。

 しかし、そんな浩之の警戒も、海水浴場の人の多さの前では、何の意味もなさなかった。

 ぞくりっ、と浩之の超能力的な第六感が危険を知らせて来たが、すでにそれは遅かった。

「み〜つけた〜」

 するりと後ろから伸びてきた細く白い腕が、浩之の胴体にしっかりと回されていた。まったく力が入っていないようで、綾香の腕は浩之の力ではぴくりとも動かない。

 バックを取られるというのは、非常に不利と言われている。バックマウントという言葉があるように、マウントポジションを取るのと同じぐらい有利なのだ。

 が、それだって絶対ではない。近年マウントポジションを取った程度では決着はつかなくなっている。マウントポジションに対する皆の技術が向上しているからだ。

 立った状態で後ろを取られたとしても、実は致命的ではない。そもそも、後ろから掴むという動きに対する対処は、どの護身術でも練習される、想定される動きなのだ。後ろから殴られればどうしようもないが、掴んでくれば、そこには隙が生じる。

 しかし、綾香にとってはそんなことはまったく関係なかった。完全に、浩之の動きを制圧している。

 まわりの男から、ちっ、と舌打ちが複数聞こえた。水着姿の超のつく美少女に後ろから抱きしめられている構図をはたから見ていれば、それは舌打ちの一つもしたくなるだろう。彼女と来ている男はいるだろうが、それでも綾香ほどの美少女はまずいまい。

 だが、浩之はそんな幸福な状態ではない。まあ、中には綾香の胸の為なら死んでもいいという人間もいるかもしれないが、さすがの浩之も胸に殉職したいなどとは思っていない。

「よくもまあ、逃げてくれたわねえ」

「ま、まて綾香。話せば分かる」

 絶対分かってくれないだろうなあ、と思いながらも、浩之は命乞いをするのだった。

 

続く

 

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