「倒れはしましたが、あれぐらいでどうにかなるほど、うちの部員は弱くはないですからね。それぐらいは信頼してますよ」
それはまあ、バカはバカでも、寺町は並大抵のバカでないことは分かっている。まったく見当違いの方向でもいい話にまとめようと無意識にしているところなど、心難いぐらいだ。だが、それに付き合うほど、坂下は酔狂ではなかった。
実際のところ、酔狂と言う意味では、坂下ほど酔狂な人間も少ないのだろうが。
「そういう意味じゃないよ」
坂下の少し真剣みを帯びた言葉に、他の人間は、空気を読んだのか、皆思い思いに距離を取って別のことに集中しているように見せ掛けていた。まったく、皆が皆そうなのだから、よく教育されていると言うべきか。ここに空気読めなさならば日本でも有数かと思われるバカがいるので、釣り合いを取ろうとしているのかもしれない。
寺町は顔にハテナマークを浮かべている。その姿すらも、何故か堂々としているのだからよく分からない。
「まあ、本当は私がとやかく言うべきことじゃないんだけどね」
坂下の経験から言えば、恋愛事はまわりが手を出せば絶対に悪い方向に向かう。ひっつけようとしてもそうなのだ。坂下にそういう気がないのならば、余計によろしくない。しかし、まどろっこしいことを、この男が理解できるとも思えずに、率直に言う。
「あの子が楽しく練習をしているようには見えなくてね。別に応えてやる必要はないと思うけど、どうせならさっさと結論をつけて解放してやるべきじゃないのかい?」
きつい練習など、誰だって好きではない。それを好きと思えるのは、坂下も含めて一部の人間と、練習の結果ついてくる成果を期待してのものだ。寺町本人は、もちろん練習が好きで好きでたまらないタイプであろう。その結果強くなることも何より楽しめる男だろう。
しかし、寺町の後輩の女の子は、そうは見えない。むしろ、坂下から見れば、よくあの体力で練習についてきている、と思うのだ。
恋の力は、ときとして体力の限界すらも突破することを坂下は初めて知った。で、案の定倒れた訳だ。
練習で倒れること自体は、坂下だって何度もしてきた。部員でも、たまにいる。気をつけていても、そもそも上限を上げるための練習というのはそれほどにきついものなのだ。坂下も、他の空手部員も、大小の差こそあれ、それを覚悟の上だ。
なるほど、あの後輩の子も、覚悟はしているだろう。しかし、それはあくまで、寺町という先輩の近くにいたいが為、としか見えなかった。それは坂下がとやかく言うべきものではないのだが。
「あのままじゃ、あの子、身体壊すよ?」
無理をして身体を壊すとすれば、話が違ってくる。それでも強くなりたい、というのならば止めはしないが、その子の目的は違うだろう。違う目的の為に、身体を壊すことはないと思うのだ。
「ふむ、美祢には何度も無理はしないように言っているんですが、なかなか言うことを聞いてくれなくてね」
「……って、寺町、言ってたの?」
これは、正直坂下にも意外だった。合同練習では、寺町が自分の部員をどやしている姿しか見たことがなかったのだ。
「当然です、体力の差まで無視はできんでしょう。土曜日の合同練習は休んでいろとも言ったんですがね」
「でも、合同練習じゃあ、そんなそぶりしたことないよね?」
「それこそ当然です、美祢が覚悟を決めて行ったからには、それに応えてやるのが主将としての役目でしょう!」
いや、色々間違ってるだろう、と坂下は言いたかったが、あながち間違いでもないと思ったので、言葉が続かなかった。
どういう経緯にしろ、やると本人が言ったのだから、それを尊重する。無責任なようでいて、それこそが年長者の取るべき行動なのでは、とも感じる。それに、きっと、寺町は無責任ではない。何かしらの責任は取るつもりなのだろう。
寺町に論破されたことに腹をたてた訳ではなかったが、坂下はアプローチを変えた。
「……どっちにしろ、あの子が空手をやる必要はないんじゃないのかい?」
「ないですな」
寺町は、坂下の言葉に少しも躊躇せずに同意した。
「だったら、決着をさっさとつけて解放してやるべきじゃないのかい?」
まあ、寺町のことが好きなのだろう、誰から見ても分かるぐらいなのだから、鉢尾という子には悪いが、決着はさっさとつけるべきなのだ。
奇妙でも何でもなく、坂下は寺町が後輩の子の気持ちに応えるとは思っていなかった。寺町を知っている人間ならば、誰でもそう思うだろう。そもそも、寺町は色恋から最も遠い位置にいる男なのだ。それは、恋愛に縁がないということではなく、興味がないという意味で。
いい男だ、とは決して思えない。それでも、寺町は味のある男だった。バカでも迷惑でも、これだけ後輩を集めることが出来たのは、明らかにこの男の魅力によるものだ。女の子に決して人気が出るとは思えないが、単純で明快な癖に、いやに深い。
ただ、坂下は自分が言い方を失敗したと思った。何せ、この男は色恋にまったく興味のない男だ。今でも十分に直接的に言っているつもりだが、それが通じるかどうかも怪しいところだった。
「俺もそう思いますがね。俺は女の子を幸せにするとかそういう世界とは無縁の男ですし」
「ああ、あんたでも自覚あったんだ」
「それはもちろん。俺がどれだけ変わってて、どれだけ異様かぐらいは知ってますよ」
カラッとした笑顔で、寺町は自分の異を言い切る。あの異能の必殺技を使う初鹿の弟だからなのかまったく関係ないのか、確かに、この男だけは普通ではなかった。この年齢でこんなことを言えばバカ以外の何物でもないが、寺町は、バカで本物だった。
「……?」
そして、坂下は、何か物凄い違和感を感じて、首をかしげた。そして、違和感の正体に、遅まきながら気付く。
「……寺町、もしかして、後輩の子の気持ち、気付いている?」
「あれだけあからさまに好意を寄せられて気付かないほど俺もバカじゃありませんよ」
いや、お前はバカだろ、明らかなバカだろ!! とまわりで聞き耳をたてている皆と、坂下も同じ気持ちだった。まさか気付いているとは思っていなかった。言われてみれば、確かに皆が気付くのだから寺町が気付いても何ら不思議はないのだが、それはない、と坂下ですら思っていたのだ。
「とは言え、俺としては興味もない話ですがね。いや、もちろん美祢には色々と世話になってるので、感謝はしてますよ」
だが、応える気はない。寺町にとってみれば、言葉にするまでもないことなのだろう。
動じていない。いや、多分後輩の子の気持ちを知らずに坂下から指摘されても、寺町は変わらなかっただろう。
「なら話は早い。空手がしたい訳じゃない人間を縛っておく意味はないだろう?」
では、そうしますか。と寺町が答えるとは、何故か坂下は思わなかった。そして案の定。
「俺としては」
寺町は、いつになくまじめくさった表情で、言い切った。
「本人が戦いたくないのならば、手は出さないつもりなんですがね」
「寺町、お前がそれを言うか、お前が」
坂下はたまらずつっこんでいた。何せ、この寺町という男、戦いのないところにしゃしゃり出てさえ戦いの場面を作るような男である。
「無理強いしたことはありませんよ、俺は」
いや、御木本とか藤田とか、どう見たってあんたと戦いたいとは思ってなかっただろ、ともう突っ込みたいところが多すぎで、坂下は反対に何も言えなくなった。坂下を黙らせるなど、さすがは超のつくバカ、というところか。褒めてはいない。
「それに、身体を壊すことはないですよ」
寺町は、今度こそ、楽しそうに笑った。
「この合宿が終われば、俺は北条さんのところで住み込みで特訓ですからね。部員はその間解放しますから」
部員のことは、明らかにおまけとしか思っていない口調だった。空手部の部長としては、それなりに責任を持ってやっていたようだが、やはり、寺町の本筋は戦うことなのだ。北条鬼一の下で特訓をすることが楽しくて仕方のない様子だった。
「美祢には、練習量を減らすように坂下さんから言って下さい。俺の言うことは聞かなくても、坂下さんの言うことなら聞くでしょう」
坂下は、とりあえず当初の目的を達成したので満足すべきか、全部寺町に一本取られたような気持ちになった上に憎まれ役をやらなければならなくなったことに不満を感じるべきか、判断に迷った。
坂下すら混乱させる、この超絶バカは、いつも通り元気過ぎた。
続く