作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(47)

 

 海水浴場からそう離れていない砂浜だが、人の姿はまばらだった。どこかの運動部なのだろう、トレーニングをする人数の方が多いぐらいだ。人が少ないのは、海水浴場の砂浜みたいに遠浅で防波堤がないことなのか、たまに岩場があって危険なのか。とにかく、練習にはうってつけの場所だ。

 そんな砂浜に、三人の姿はあった。水着ではないし、そもそも浩之以外は露出が少ない。まあ、日焼け対策なのだろう、シースルーのジャージとか、一体どこから持って来たのか分からないものを着ており、汗で透ける姿は、ある意味水着よりもエロい気もする。

 ただ、浩之には残念なことに、エロいことを考える余裕は、今の浩之にはなかった。

「はい、ラストっ!」

 浩之の声で一斉に砂浜をダッシュする。距離は僅か40メートル。しかし、走っている浩之の脚は重く、思うように身体が前に進まない。天性の瞬発力を持っている浩之にとってみれば、短距離は格闘技を始める前もかなり得意な競技であったが、今は前よりもスピードが落ちているとすら感じられた。

 それも仕方のないことだろう。砂浜を走るというのは、これでなかなか難しいものだった。砂は体重をかけられると簡単に崩れ、それだけ衝撃を奪い去る。どんな瞬発力も、土台となる硬い地面がなければ無用の長物だ。綾香はそれでもかなり速いが、葵は浩之とどっこいどっこいだ。まあ、男の、しかも天才と言われるほどの瞬発力を持った浩之とどっこいどっこいというのは責めるべき部分ではない気しかしないが。

 だいたい、下が砂浜なだけではない。浩之の息は完全にあがっており、心臓は痛いほどに脈動して空気を求めていた。

 永遠とも思える40メートルの距離を駆け抜けた後、浩之は何の躊躇もなく砂浜の上に倒れ込んだ。陽射しを浴びた砂は焼けるように熱かったが、知ったことか、と思った。それほどにきつかった。何とか横を向くと、葵は何とか用意したパラソルの下まで移動してから倒れた。一人、息は切れているがそれでも倒れるほどではないのか、綾香だけがパラソルの下に座り、呑気にスポーツドリンクを飲み出す。

「浩之〜、そんなところに水分補給なしで倒れてると日射病でも熱中症でもどっちでもいけるわよ」

 そう思うのなら助けに来い、と浩之は声を出せないまま綾香を睨み付けた。もちろん、その程度で綾香がどうこうなる訳もない。

 午後になって、暑さと陽射しのピークを過ぎてから、三人は練習を始めた。先ほどのも、その準備運動の一つだ。

 40メートルダッシュ、30セット。

 合計距離1200メートルの過酷な「準備」運動である。

 単に合計すれば1,2キロ。この程度ならば、運動している人間が走るのには簡単な距離だろう。しかし、それが全速力となれば話は別だ。人間の身体は1,2キロの全速力に耐えられるようには出来ていない。いや、どんな動物であれ、「全力」では不可能だろう。

 その間に十五秒の休憩を挟んだとしても、そんなもの関係ない。息など整えられる時間ではないのだ。

 しかも、これを砂浜でやるのだから訳が分からない。40メートルを走るのに、いつもよりも数秒は遅くなるのだ。甘く見積もっても、1,5倍ほどは距離が長くなったと等価だろう。

 これを、綾香は準備運動とのたまわったのだから恐れ入る。綾香だって、全力は全力のはずなのだ。でなければ、浩之が追いつけない理由が分からない。男女の差を考えれば、それでも負ける方がどうかしているのだが。

 格闘技は無酸素運動だ。格闘家がかなり走り込みをするのは、スタミナをつける為だが、どれほど過酷な練習を繰り返しても、人の全力で動ける時間は短い。トライアスロンをするような無茶な体力を持った人間でも、自転車を立ちこぎで全力を短い時間しか続けられない。

 だから、全力を出せる時間が少しでも長い方が強い。その考えはおかしくない。限界があるにしても、相手も同じように限界を抱えているのは同じ。ようは、対戦相手を上回ればいいのだ。

 そう言う意味では、全力を長時間出させるような練習は確かに意味がある。と同時に危険でもある。身体にかかる負担は、それこそ並ではない。浩之が熱い砂の上に倒れて動こうとしない、というよりも出来ないのも見ても分かる通り、まさに限界の境界線を見させるような練習は、危険過ぎる。

 準備運動、と言った割に、綾香が次の練習を始めないのも、そして浩之を助けに来ないのも、何も意地悪をしているのではなく、綾香ですらすぐに次の練習が出来る状態ではないのだ。まあ、そんな練習を組み込むな、と言ってやりたいところだが。

 無茶はともかく……確かに、これは有効だな。

 言ったように、無酸素運動でどれだけ長い間動けるかは、勝敗に直結するほどに重要なものだ。どんな天才でも、身体の酸素が切れれば動けなくなるのは同じ。であれば、その為の練習は有用だろう。身体がそれに慣れれば、回復も速くなるだろう。修治の無茶なスピードのランニングに意味があるのかと思っていたが、なるほど、ここまでは無茶ではなくとも、修治も同じことを考えて練習していた訳だ。

 しかし……効果のほどはともかく、このままだと、俺死ぬよな?

 まあ、実際のところ浩之は簡単には日射病や熱中症になったりはしないが、どれほど鍛えていても、なるときはなるものなのだ。そして、それはなりやすさに比べて、致命度は案外高い。さっさと日陰で水分補給でもしないと、危険度はますます上がる一方だ。

 はって行くと余計に疲れそうなので、浩之は鉛のような身体を何とか持ち上げる。息が苦しくて胸がつぶれそうだが、それを意志の力で押さえ込む。こう考えると、綾香もけっこうやせ我慢しているのかもしれない。

「ほらほら、鬼さんこちら、手のなる方へ〜」

 ふざけている態度からは、もちろんそんなものはまったく伺うことは出来ないが、綾香が負けず嫌いなことを、浩之は嫌と言うほど知っていた。葵すらやっとのろのろと上半身をゾンビのように力なく持ち上げているのに、綾香がこれほど元気なのは、さすがに我慢しているとしか思えない。まあ、それでも我慢出来るほどの疲労、と思うと正直暑さと疲労だけではなく、その圧倒的な差に倒れてしまいそうだが。

 身体が完調であれば、綾香ほどの美少女に遊女ごっことかマニアックな趣味なのだが、そんなバカなことを考えるほどの余裕は、さすがの浩之にもなかった。

 もう一つ言えば、浩之はどれほど疲れても、警戒を解くべきではなかったのかもしれない。エクストリームに参戦するとは言え、普通の男子高校生である浩之が殺し屋並に警戒心を持つのは常識ではないが、常に浩之の常識を世の中の非常識は超える。何が常なのか、文学的興味が沸く内容だが。

 とにもかくにも、浩之にとっては災難でしかなかった。

 パラソルまで後十歩、というところまで来たところで、浩之は綾香の顔が警戒の顔に変わったことに気付いた。もちろん、だから浩之に何が出来た訳ではない。しかし、とっさにまわりを警戒するよりも先に、綾香に害なす者がいれば盾になるつもりで動いていた。そこには打算もなければ、身体が動かないという事実も無意味だ。

 結局、浩之の身を助けたのは、その浩之の性質だったのだろう。

 綾香の視線が浩之の後ろにあるのを見て、浩之は素早く振り向きながら、綾香に向かって飛んで来た何かに体当たりをかけていた。

 浩之は体当たりをかけたわけではない。それから浩之にぶつかってきたのだ。ついでに言えば、隠す気もないので言ってしまうと、さすがの修治でも、10歩を一足飛びで……いや、修治なら出来そうな気もする。

 まあぶっちゃけ、浩之を狙って後ろから不意打ちで修治のドロップキックを、浩之は何とかガード出来た。事実はそれだ。

 まあ、あっさりと跳ね飛ばされたこと自体を、浩之は恥じなくてもいい。それだけの話だった。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む