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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(50)

 

 修治がタックルをかけられて倒れるのを見るのは初めてではない。桃矢がタックルを仕掛けて、わざとではあるが倒れたことはあるし、そもそも雄三であれば修治をタックルで倒すことも出来る。雄三でも無造作に、とはいかないものの、雄三には出来ることだ。浩之だって、いつかは出来るように、なれればいいのだが、まあそのことについては置いておくとして。

 相手は明らかに小柄。スピードは小さい方が有利とは言え、修治のそれは大きな身体からは、いや、身体を置いておいても想像のできないものだし、どれほど勢いがついていたとしても、小柄な相手のタックルでどうこうなるものではない。そもそも、不意打ちですらないそれを、修治が避けられない理由がなかった。

 しかし、現実は、浩之の予想をことごとく無視した。小柄な身体からのタックルは見事なほどに修治をとらえ、それはまるで修治が自ら受けたと思えるほど綺麗にだ、あろうことか、修治はそのまま尻から砂の上に倒れたのだ。修治であれば、そのままタックルを下に切って落とすことも、そんなまどろっこしいことなどせずに直接打撃で叩き付けることも出来たはずなのにだ。

 やはり、失恋の痛みは修治を確実に弱めているのか、と浩之は思ったのもつかの間。

「はぁ?!」

 修治に向かってタックルをしかけて、倒れた修治の胴体にひっついているそれを見て、浩之は声をあげてしまった。小柄なその人物に思い切り見覚えがあったからだ。あったからこそ、声をあげずにはおれなかった。つられたように、葵も、思わず驚きの声をあげる。

「ゆ、由香さん?!」

 修治にタックルをかけて、あまつさえ引き倒したのは、プロレスラー、島田由香だった。午前中に顔を合わせて、今また顔を合わせた。そのことは不思議ではない。この周辺で練習をしているのなら、顔を合わせることもあるだろう。海水浴場から少し離れているここは、確かに練習にはもってこいの場所なのだから。

 しかし、それが何故修治にタックルをかけているのか、それは浩之の想像の範疇を超えていた。

 そもそも、由香は強い。それは馬の合わない、というかそもそも天敵と思っている浩之でも認めるところだ。だが、それはあくまで浩之を基準にしたものだ。葵とではどっちが強いか分からないし、まあその時点で十分凄いのだが、それでも綾香と勝負になるとは思っていない。

 修治は、綾香を追いつめたことがあるほどの実力だ。その修治を、あっさりタックルで倒すほどは強くない、と思っていたのだ。三分の一ほどは不意打ちとしても、その程度でどうこうなる修治でないことは、浩之が一番理解している。

 だが、そんな浩之の驚きは、修治の驚きに比べれば大したことではなかった。修治は驚愕の顔をしていたのだから。あの修治が、まあ最近は女性関係でだいぶ無敵性は落ち気味ではあるが、それでもまだまだ怪物であるはずの修治が、明らかに狼狽した声を出す。

「ゆ、由香ちゃん?!」

「おひさしぶりー、修治さん!! ここに来るなら連絡してくれても良かったのに〜」

 その言葉の意味を頭の中でしばらく吟味して、浩之はどこに驚くべきか迷うことになった。実に単純な話なのだが、意味がわからないことこの上なかった。

「い、いや、そもそも、何でこんなところに由香ちゃんがいるんだよ」

「あ、言ってなかったっけ? おっかしいなあ、メール出してたつもりだったんだけどなあ。毎年ここで合宿してるよ〜」

「し、知らなかった。というか知ってたら来な……」

「わーい、会いたかったよー、修治さん〜〜〜」

「お、わっ、ちょ、由香ちゃん離れてくれよ!」

 あの修治が、明らかに押されていた。いや、修治がこれほどまでに逃げ腰なのを、浩之は初めて見た。例え自分の身が滅ぼうとも怖い者知らず、修治の性質をそう判断していた浩之には、余計に驚きだ。

 修治の胴体に腕をまきつけた由香が、マーキングをする猫のように、頭をぐりぐりとおしつけている。そのあまりの、というかあまりにあまりな光景に、見物する面々も声がない。綾香が何もつっこめないことだけでも、どれだけこの場が異常であるのか分かるだろう。

 修治はその強さから言えばかなりまどろっこしく、本気ならば例え由香が本気で掴んでも簡単に引き剥がずだろう、まるで子猫を初めて相手にするようにおっかなびっくり由香を引きはがすと立ち上がった。由香は、その修治の近くをぐるぐるとまとわりついている。なついている猫そのものだった。

「……って、知り合いかよ!」

「あれ、何でこんなところに負け犬がいるの? あ、葵ちゃん綾香ちゃんこんにちは〜。暑いよね〜」

 気付いていない訳がないのに、今やっと三人を見つけたかのように由香はふりふりと手をふる。というかいきなり負け犬呼ばわりはどうかと思うが、いちいちその程度には浩之もつっこまない。

 いや、もしかしたらもしかすると、想像するのも、何が恐ろしいのかすら分からないほど恐ろしいことだが、由香には、今の今まで他の三人は視界に入っていなかったのかもしれない。というか、修治しか視界に入っていなかったとすれば、それはもう一種の凶事だ。

 偽物であって欲しい、と浩之は自然に思っていた。いや、もう普通に由香が修治に懐いているとか、考えるだけでも恐ろしい、言ったように何が恐ろしいのかよく分からないがとにかく恐ろしいことは信じたくもなかったが、先ほどの負け犬呼ばわりから推測するに、本物のようだった。湾曲的に、あの悪口は浩之にダメージを与えている。

「あー、修治、何か由香と知り合いみたいだけど」

「というかそれはこっちのセリフだ。何で由香ちゃんと知り合いなんだ?」

 修治がちゃん付けするのもかなりのダメージ、ぶっちゃけけっこう致死量、のような気もするが、浩之は自分の精神安定の為に、細かいことは見て見ぬふりをする決心をした。こうして少年は大人になっていくのだろう。多分違う。

「俺の方は偶然というか葵ちゃんつながりというか。で、修治の方は?」

「ああ、知り合いの知り合いというか、姉貴の後輩……」

 そのときだった、その場にいた由香以外の誰しもが、そちらを振り向いていた。声のかかる前、まるでそこにいるのを別の方法で知らされたように。

「よう、誰から思ったら修治じゃないか。何でこんなところにいるんだ?」

 すっきりと通ったハスキーボイス。女性としては、いや、男としたって明らかに大きい、百八十あるかもしれないのに、まったく鈍重さを感じさせない耐え抜かれた身体。余裕を持った笑みの中にも、その鋭い目には、明らかに常人のそれとは違うものが見て取れる。

 浩之は、ごくりと唾を飲み込んだ。可憐というのとはほど遠いとはいえ、格好いいという意味ではその女性はかなり綺麗な部類に入るだろう。もっと筋肉が細ければ、スーパーモデルでも通るかもしれない。しかし、そういうことではない、そんなことに気を取られている訳ではない。

 分かり易く、その人物を評そう。女性版修治。いや、もしかすれば、女性版雄三。または女性版北条鬼一。

 ものが違う。

 修治が、心底嫌そうな顔をするのを、浩之は確かに見た。それは、ただ嫌なのではなく、どこか恐怖を伴うものだった。

「……姉貴こそ、何でここにいるんだよ」

「ああ? 由香見てわからるだろ、合宿だよ合宿。こいつが一人で遊びに来たとでも……まあこいつならあるか」

 最強の姉は、あの格闘バカすら従える寺町初鹿、ついこの間、浩之はそう結論付けた。

 その女性の目が、こちらを向く。その女性の笑顔は実に友好的なのに、浩之はまるで心落ち着けなかった。浩之がそれを感じれるほどに強くなったということなのだが、しかし、鈍い方がこの場合は良かったのだろう。

「ああ、見たところ、修治の知り合いみたいだね。初めまして、修治の姉で、プロレスラーやってる、武原彩子だ」

 最強の姉ランキングが、おそらくこのとき変更した。

 

続く

 

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