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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(62)

 

 暑いときに辛い食べ物、というのはなかなかおつなものだ。とは言え、今浩之の目の前にあるのは、顧問の子供二人が嬉しそうに食べているのを見ても分かるように、カレーとは名ばかりの誰でも食べられるカレーもどきだ。ちなみにこの辛くないカレーでも浩之は好きなのでまったく問題はない。

 人数が多い場合、料理はやはり煮込み料理の方が楽である。一度に沢山作った方が美味しいというのもあるが、焼くのはどうしても手がかかる。少なくとも、一度準備さえすれば鍋をかきまわすだけでいいというのはだいぶ手間が省ける。しかもカレーは誰が作っても美味しく作れると有名な料理だ。

 問題があるのは、料理の方ではなく、食べる浩之達の方だった。

「……うぷっ」

 身体は疲労している。あれだけ厳しい練習を課したのだ。それと同時に、栄養を補給しないといけないのも分かる。が、あまりにも疲れすぎて、胃が固形物を受け入れないのだ。カレーは流動食に近くはあるが、けっこう重い食べ物だ。今の状態では、食べられるものではない。

 浩之だけではない、空手部の面々も同じような状態だった。皆、カレーを目の前にして動きを止めている。練習をしても平気で食べているのは、綾香と葵、寺町だけだ。

 浩之だって、日頃から厳しい練習を自分に課しているのだ。しかし、それでも綾香と葵の練習と同じレベルで身体を動かすと耐えることが出来なかった。この二人は確かに才能にも恵まれているのだろうが、今の浩之がへたばる練習量とは、尋常ではない。これで午前中は遊んでいたというのだから、余計にだ。

 空手部の方も、日頃から厳しい練習をしているはずのランや、空手部の上位の人間達が全員辛そうなのだから、よほどの練習量だったのだろう。というか、その中で平気ですでにおかわりを頼んでいる寺町の身体の中の構造はどうにかなっているのだろう。

「一杯はノルマだ。良く咬んで、ゆっくりでいいから、ちゃんと食べなよ」

 そう厳しいことをおっしゃっているのは鬼の姉御と名高い坂下。自分は怪我で練習していないとは言え、坂下にそう言われれば誰も逆らえない。ちなみに坂下も二敗目をつぐために立ち上がるところだった。おおむね、練習をしていないメンツは元気そうだった。後、お昼に倒れていた寺町のところの唯一の女子部員も元気そうだった。ニコニコとしながら寺町のカレーをついでいる。休憩で体調が戻ったのだろう。

 坂下に言われるまでもない、浩之も何とかこのカレーを消費しようとしている。これでギャグのようにまずければもっと別の苦労で済むのだろうが、普通に美味しいカレーがここまで苦しいとは、正直思わなかった。

「てか、葵ちゃんもよくあんな練習の後に食べられるな」

「え、あ、は、はい、食べるのは身体を作る資本ですから……」

 顔を赤くする葵。やはり、女の子としては沢山食べることを指摘されるのは、何度やられても恥ずかしいようだった。

「まったく、虚弱ねえ。あれぐらいで胃が食べ物を受け付けないなんて」

「綾香、お前は葵ちゃんの謙虚さを半分でも見習えよ」

 もくもくと野菜たっぷりのカレーを食べている綾香は、当然のようにまったく平気そうだった。というかあれだけ早く食べているのに、ちょっと食べる姿が色っぽいとか、一体どうやっているのか、謎だ。

 二杯目をついで来た坂下が、スプーンの進んでいない浩之を見つけて、ちょっと怪訝な顔をする。

「藤田も食欲がないのはちょっと以外だねえ。そんな顔して、バカなほどタフなのに」

「誰がバカだ。俺はそこのとは違って繊細なんだよ」

「そこのバカと比べても仕方ないだろう? 見た目だけでも繊細そうだって言ってるんだからそれで満足しときなよ」

 聞こえていないのか二杯目を勢いを衰えることなくかっこんでいるそちらのバカは、多分聞こえてもはっはっはっは、と笑うだけでまったく気にしないのは間違いなかった。バカも突き抜ければ偉大である。バカなのはかわりないが。

 まあ、確かに浩之は外見上は正直あまり打たれ強いようには見えない。しかし、知っての通り、その肉体的及び精神的タフネスさは驚異だ。その浩之がへたばっているのだから、坂下がつっこみを入れるのも頷ける。

「しっかし、俺はともかく、部員の方はあんなんでいいのか? まだ初日だぞ?」

 まだ二日あるのだ。初日からあれでは、最後までもつのか怪しいものだった。

「毎年合宿の一日目はこんなもんだけどねえ。大丈夫、人間、けっこう慣れてくるもんだよ。ま、明日の朝はみんな筋肉痛だろうけどね。だからこそ、多少無理してでも今は食べておいた方がいいんだよ」

 疲労に栄養不足では、動くものも動かない。身体は少なくとも栄養を欲しているのだ。腹の中にさえ入れてしまえば案外何とかなるのだ。人間の身体は、本人が思っているよりはタフに出来ていることを、坂下は経験で知っていた。

「藤田も、ちゃんと食べておいた方がいいんじゃないかい? 明日、辛いよ?」

「ああ、言われなくても分かってるよ」

 浩之は、覚悟を決めてまた一口カレーを口に運ぶ。胃は今疲れているから食べ物なんかいらない、と言って来るが、浩之はそれを強引にねじ伏せ、ゆっくりとかんだものを飲み込む。それを何度か続けていると、多少身体が慣れてきたようだった。しかし、まだカレーは半分以上残っている。

 普通なら楽しい食事の時間を、酷く苦行のように過ごしながら、浩之は色々と考えていた。

 多分、修治と雄三、そして彩子の乱入がなければ、浩之は最後まで綾香の練習についていけなかっただろう。葵がどれほど限界に近いかは分からないが、こうして平気でカレーを食べていたのを見れば、余裕こそないかもしれないが、浩之よりはかなりましと言えるだろう。

 ……これに追いつけるのか?

 皆とどうでもいいような話をしているときでも、その考えが頭を離れなかった。

 今までだって、すでに限界に近い練習をしてきたのだ。身体がそれに慣れればもっと厳しい練習を、そうやって浩之だってレベルアップしてきたつもりだった。それでも、綾香の練習についていくのは、午後、しかも休憩を挟みながらでやっとだった。いや、身体の調子をみれば、ついていけていないとすら言える。

 練習量が全てではないが、実力で負けている相手に練習量で負けていては話にならない。

 このままでは、綾香には一生勝てない。練習をしただけでも、それを痛感させられたのだ。

 部活では、基本的な体力強化の練習は、時間の関係もあってあまりしていないが、そういう練習を綾香は面倒がらずにちゃんとやっているということだ。努力する天才、まさに手がつけられないとはこのことだ。

 だが、一つだけ、浩之にも希望の光が見えることがある。

 綾香は天才だが、唯一、指導者だけには恵まれていない。

 しかし、浩之は、少なくともまわりの人だけは恵まれている。葵しかり、綾香しかり、坂下しかり。修治も雄三も、少なくとも浩之が参考になることはまだまだ数え切れないほどある。

 浩之は、それを吸収できる。天才であり、すでに完成の近い綾香とは、それが違う。

 そうやって人のものを飲み込んでいけば、この絶望的な差も、いつかは縮まる。いや、少なくとも素人のときの浩之と綾香との差は、縮まっているはずなのだ。差が大きすぎて分からないが、そうであると信じないと、浩之でも折れる。そう信じて、進むしかないのだ。

 まあ、最後まで人頼みってのも冴えない話だけどな。

 その無念さを、浩之はカレーと一緒に飲み込む。喉の奥につまるようなものを感じたが、吐き出すことなく、それも一緒に、飲み込んだ。

 

続く

 

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