「うぷっ、気持ち悪……」
浩之は、はらごなし、というか気分転換に、また一人で海岸を歩いていた。別に一人になるのが好きな訳ではなかったが、気分転換でもしないと吐きそうだったからだ。
「さすがにこの状態で二杯はきつかったか……」
というかまったく食欲がないところでカレー二杯とかバカとも言える。いくら食べないと身体が作られないとは言え、そこまで無理に食べて吐いたら元も子もない。まあ、それぐらいの無茶をするぐらいは浩之は十分バカなのでいいのかもしれないが。
すでに日はとっぷり暮れ、というかそもそも暗くなるまで練習していたのだ、時間にすれば9時ぐらいだろうか。空には、大きな月が出ており、影でなければ明かりがなくとも歩けそうだった。
浩之にとって、夜の海を見る機会は多くなかったが、けっこう好きになれそうだった。
暗い海に出る波に月の光が当たって、輝いているように見える。目を閉じれば、波の音に引き込まれそうになって、目眩を覚えた。
背にはどこもかしこも現実的なものがあるのに、そちら側だけはまるで現実からかけ離れた、怖く、しかし惹かれる非現実感に満たされた、海。
浩之は、少しの間だけ、お腹の苦しさを忘れて、その飲み込まれそうな感覚に身をゆだねていた。ただ、それはほんの短い間だ。
「……まあ、浸るにはちょっと、なあ」
人っ子一人いない冬の海ならば、もっと浸れたのだろうが、いかんせんここは夏の海、しかも海水浴場、となれば夜も夜で人のにぎわいというか、まるでどっかの川沿いのように、等間隔でカップルが並んで座っていたりするのだ。
やあまあいちゃいちゃするにはいいんだろうが、一人で浸りたいときにはまったく不釣り合いな場所になってしまってるよなあ。
とは言え浩之は単なる気分転換に来ただけなので、むしろさっさと浩之が帰るべきであろう。場違いなのは男一人でいる浩之なのだから。
浩之も、遅ればせながらそれに気付いて、仕方なく帰るか、と海に背をむけようとしたときだった。
「あら、浩之さん。一人でこんなところに来て。どうかしましたか?」
「お……て、初鹿さんか」
「おこんばんは、浩之さん。と言っても、先ほどまで一緒でしたけれど」
うふふふ、と初鹿は柔らかく笑った。
先ほどの食事のときに、初鹿はもちろんいた。もともとそんなに食べる方ではないのか、一杯は食べたようだが、おかわりはしていなかったようだし、そもそも浩之達ほどは酷く運動をしたということもなかろう。まあ、何かあって過酷な戦いがあった、と言われても信じるだろうが。
初鹿の格好は、何故かお昼と同じ水着姿だった。その上にサマーカーディガンを羽織っており、綺麗な足がむき出しで少し目のやり場に困るほどだ。
胸元をカーディガンを引き寄せて隠し、口元に手をあてて微笑む姿は幻想的とも言えるのに、酷く色っぽい。が、下品な感じはまったくない。
夏の夜の海水浴場というあまり健全そうではない場所でも、さすがは、と言うべきか上品な雰囲気はまったく損なわれていない。通り過ぎるカップルの男が横目で初鹿を見てうらやましそうな顔をするほどの美人だ。
浩之も、いつもと違った初鹿の姿に、少しだけ心を奪われた。
しかし、浩之はすぐに気付いた。その腕には、昼にはなかったものがつけられていた。鎖のブレスレットだ。銀色のそれは、無造作に手首に巻き付けられていた。しかも、両腕にだ。
対して太くもないそれが、酷く不吉なものに浩之には見えた。
「あらあら、そんなに見つめないで下さい。恥ずかしいじゃないですか」
隠れた胸元を初鹿はそっと浩之が注目していた腕で隠す。ただ、何か腕を押しつけた方がその胸の大きさが強調されているようにも思えるのだが。
「あ、いや、そういうつもりはなかったんだが」
「ふふふ、分かっていますよ。浩之さんも男の子ですものね」
「いやそうじゃなくて」
自分が明らかにからかわれているのは分かっているが、だからと言って落ち着けるものではなかった。そもそも、浩之と初鹿では役者が違い過ぎる。
浩之は、咳払いをして調子を戻すと、少し声を落として初鹿に聞いた。
「初鹿さん、何で、こんな時間に?」
「浩之さんを探して、という答えでは満足できませんか?」
「いやー、それなら光栄なんだけどな。こんな時間に一人で歩いていたら危ないだろ?」
ふふふふふ、と初鹿は浩之の言葉に、笑いをこらえきれなくなったようだ。
「私が危ない相手、というのはそうそういませんよ。まして、これを持ってる私に対しては、それこそ自殺行為ですから」
両腕にある鎖。確かに、武器にするには小さいそれを、誰も警戒などしないだろう。だが、それは大きな間違いだ。おそらくは、その伸ばしても五十センチほどのそれで、初鹿は苦もなく人の顔を削ぐことだって出来るだろう。
マスカレイド「現」一位、チェーンソーならば苦もない。
まして、ただケンカが強いというのは明らかに一線かけ離れたものを初鹿は持っている。並の相手どころではなく、明確な悪意を持った複数の相手ですら、初鹿にとっては何でもないだろう。
反対に、そんな初鹿だからこそ、何も考えずに夜道を散歩している訳ではないだろう。
「いいから、初鹿さんは戻ってなよ。見回りが必要だって言うなら俺がやるからさ」
が、そういう問題ではないのだ。だからと言って危険なことをやらせるのを浩之は良しとしなかった。
坂下を狙っているバカがいるかもしれない、というのを昼に聞いてから、浩之も浩之なりに警戒しているのだ。練習で疲れ切って役にたたないとは言っても、それでも素人よりはましだと思うぐらいには鍛えてある。
何より、女の子を危険にさらせることが、浩之にとっては許し難いことだった。
初鹿は、それを聞いて、しばらくきょとんとした顔をしていた。いつもの底を見せない、しかし柔らかい笑みから見れば、綺麗ではなくとも、可愛いと思える顔だった。
そして、やおら笑い出した。
「ふふふふふ、まさか、私を心配してくれていたんですか?」
「……笑われるかな、やっぱり」
浩之と初鹿、正直この間の実力の差はバカらしいほど広い。浩之ではどう逆立ちしたって初鹿には及ばない。その浩之が、浩之よりも強い相手を心配するのだから、笑わずにはおれないだろう。
「いえ、そんなことはありませんよ。本当の私を知って、それでも心配してくれるのですから、むしろ感謝したいぐらいですよ」
そう言うと、初鹿は浩之に気取られないスピードで浩之との距離をすべるように詰める。
「嬉しくて、我慢できなくなってしまいそうです」
その動きは、明らかに男女の話するようなものではなかったが、浩之は色々な意味で金縛りにあったように動けなくなった。
柔らかい、しかしどこか狂気のようなものが感じ取れる瞳が、浩之の目の前に迫っていた。
「少しぐらい、味見しても怒られませんよね?」
そう言って、初鹿は顔を近づけてくる。まさに達人の動きに、浩之はまったく抵抗できなかったが、抵抗できなかったのは、決してそれだけが理由ではなかった。
後数センチ、というところで、するりっ、とまるで手の間を滑り抜けていく水の中の泡のように、初鹿は浩之から距離を取っていた。
「ふふふっ、冗談ですよ」
「い、いや、初鹿さん。遊ばないでくれよ、心臓が止まるかと思ったじゃないか」
それを聞いて、初鹿はふふふ、と楽しそうに笑う。
「少し残念ですけど、色々と皆さんに恨まれるので、味見はやめておきますね。駄目ですよ、浩之さん、そんなに簡単に流されては」
うっ、と浩之は言葉につまった。自分が女の子の誘惑に流されやすいのは多少なりとも自覚があるのだろう。というか、そもそも女の子から誘惑されること自体どうかしている。
「浩之さんの心遣いがありましたし、今日はもう戻りますね。どうせ夜は皆合宿場の中なので心配する必要はありませんし」
「……言われてみればそうだな」
坂下が狙われているとして、それがまわりに飛び火するとしたとしても、まさか合宿場におしかけてくるということはないだろう。来たら来たで危険な人間が集まっているので問題ない。それはもう相手に同情するほどやばい。
「うし、気分転換も終わったし、帰るか」
苦しさがいつの間にか消えていた。どうも初鹿の出現を危険と察知したのか、身体は大急ぎで消化を行ったらしい。便利な身体である。
「一緒に帰るのは遠慮しておきます。私も来栖川さんやランちゃんに嫉妬されるのは遠慮したいですから」
その言葉で、ランとの関係を知っているのか、と浩之は一瞬邪推したが、何も言わなかった。というか、邪推とかではなく、そもそも誰がどう見てもランは浩之のことが好きなのが一目瞭然で、告白されるまで気付かなかった浩之が鈍感過ぎるのだ。
「では、浩之さんは少しここで時間をつぶしておいて下さい。私が先に戻りますから」
「ああ、気をつけて」
浩之の、言葉だけではない言葉を聞いて、初鹿はふふふっ、と柔らかく笑った。
「あんまり、私を誘惑しないで下さいね」
続く