朝、目が覚めたら、全身が痛かった。
「うおっ……いたたたた……」
見覚えのない天井を目が認識した次の瞬間には、身体は痛みを訴えてきていた。動かなければまだましだが、少しでも身体を動かすと鈍痛が走る。
浩之は、身体を引きずるようにして起きあがった。正直に言えば、立ち上がるのも嫌なのだが、そうも言っていられない。下手に寝転がっていても、そのうち鬼より怖い坂下や多分いつも通り元気な綾香に襲撃されかねない。
何とか起きあがった浩之がまわりを見渡すと、空手部員も同じような状態になっている。元気なのは、やはり唯一の例外の寺町だけのようだ。というか、何故やる気満々でストレッチをしているのだろうか? 朝から元気過ぎる。朝に弱いという言葉とは正反対だとしても、相変わらずバカは元気過ぎだろう。
原因は分かり切っている。筋肉痛だろう。浩之もかなり無茶な練習をしていたはずなのだが、綾香の練習に身体はついていけなかったということだ。空手部の方を見ても、ここまで死屍累々のところを見ると、かなりの無茶な練習だったのだろう。
……これで一日目、なんだよなあ。
まだ残りの時間は長い。遊んで過ごすならばともかく、この状況を見るに、脱落者が出ないか心配をする必要があるだろう。もちろん、その中には浩之も含まれているかもしれない。正直、浩之にも耐え抜く自信がない。少なくとも、遊んでいる余裕は、まったくなさそうだった。
うめき声が聞こえる、天候はともかく状況的にはまったくさわやかではない、合宿二日目の朝が始まった。
「よし、みんなそろったかい?」
朝からまったくだらけた様子のない坂下のりりしい顔は、むしろ今の状況では嫌味とも取れる。あまり空手部と一緒に練習はしないのだが、今は綾香の練習に付き合うのは無理、ということで、浩之は空手部の練習に混じっていた。というか、葵も綾香も一緒にいる。
葵は朝から元気そうだが、綾香は眠たそうで、上半身がふらふらとゆれている。まあまだ朝の6時前なので眠いのは仕方ないところだが、綾香のその姿をちょっとかわいいと思ってしまうあたり、浩之も大概余裕があるのかもしれない。しかし、二人とも空手部員や浩之のような身体が痛い、ということはなさそうだった。日頃からどんな練習をしているのか想像もつかない。
これに届こうと思うのだから、気の遠くなる話だ。
うめき声しか聞こえない部員達を見て、坂下は苦笑しているようだった。だが、呆れている様子はない。むしろ、まあ仕方ないかという表情をしている。いや、こうなることを想定していなかった訳がないのだ。部員の誰がどれほどの無理が出来るかぐらいは、坂下ならば理解しているはずだ。つまり、少なくとも筋肉痛になるぐらいの無理はさせた自覚があるのだろう。
「まあみんな今日は筋肉痛になってるだろうから、朝ご飯まではゆっくり柔軟をするだけにとどめるよ」
それは、鬼の姉御と恐れられる坂下にしては、温情過ぎる言葉だが、そもそもこんな状況に部員達を追い込んだのは坂下だということを忘れてはならない。しかもこうなることを分かってやったとしか思えないのだから、感謝の気持ちを持つのは間違っているだろう。
まあ、浩之の現状には坂下はまったく関わっていないので、そんなことを浩之が思うのはお門違いだ。そもそも、空手部にはきっちりと教育が行き届いているので、坂下の教育に異を唱える部員はいない。恐怖政治マジ怖い。
道場に集まった格好も、皆ラフだが運動するような格好でない。朝はさすがにまだ涼しいし、汗をかくような運動はする予定がないからだ。というか、こんな筋肉痛の状態では練習になどならないだろう。
「ペアを組んで、時間をかけてゆっくりやるようにね。1時間はかけるから、無理をしないように」
いくら打撃格闘は柔軟性が命とは言え、一時間はかけすぎな感じもするが、ある意味仕方ないところもある。まだ朝食が出来ていないのもあるし、筋肉痛になっている身体を慣らすために行うことで、これは言わば休憩とも取れるのだ。
ちなみに、柔軟を良く夜に行う人がいるが、どちらかと言うと朝に行う方が良い。夜の方が身体は柔らかくなっているし、風呂上がりなどにすればそれは顕著だろうが、それだとやりすぎる可能性があるからだ。稼働域を広くすることが目的な訳だが、柔軟はやりすぎると身体を痛める可能性もあるのだ。無茶をしなければ稼働域は広がり難いが、無茶をすればそれだけ身体を痛める可能性も高い。ジレンマのある部分なのだ。
さて、浩之がペアを組むのは……
「はっはっはっは、さて……」
「いやお前とはやらないから」
うきうきしながらどう見ても柔軟をするつもりには見えない寺町を、浩之は一蹴した。というか、練習でもこの男とはやりたくなかった。空気を読まないことでは誰にも負けないこの男のことだ。柔軟をしていたはずがいつの間にか組み手になっていても驚かない。
とは言え、葵と綾香が組んでしまっているので、浩之は組む相手がいなかったりする。だが、寺町と組むのはかなり却下だ。
どうしたものか、と横で笑い続けている寺町を無視して考えていると、横から声がかかった。
「あの……浩之先輩、柔軟、組みますか?」
「ああ、ランか。そうだな、知り合いが少なくて組む相手に困ってたんだ」
一応、同級生である御木本や池田とは最低限の面識はあるし、池田とも会話できるぐらいの面識はあるが、しかし良く知っている相手と組むのが、やはり気持ち的に楽だ。
「でも、ランの方はいいのか? 友達と組んだ方が……」
見る限り、ランは空手部の面々と友好的な関係を築けていた。不登校でケンカに明け暮れていたころがあったらしいので、人付き合いについても浩之は多少なりとも心配していたのだが、その心配は杞憂に終わったようだった。まあ、そもそもラン程度の問題ならば、坂下に教育された空手部では問題にもならないのだろうが。
「気にしないで下さい。女子部員は人数的に余る形になりますから」
不機嫌そうな顔だが、ランのそれはデフォルトでそうであるだけだ。浩之としても、寺町と組むことを考えれば願ったりかなったりだった。
完全に無視される形になった寺町だが、まったく気にした様子もなく、「それでは違う人とやりますか」と言って別の犠牲者を探しに動き出した。もしかしたら、知り合いの少ない浩之に気を効かせたのかもしれないが、ぶっちゃけありがた迷惑である。女の子には非常にやさしいが、男はどうもでいいと気持ちはともかく態度で示す浩之も浩之だが。
「ランも筋肉痛か?」
「はい、さすがに」
ランもそれなりに、というか空手部では多分上から何番目かぐらいには鍛えているのだろうが、それでも筋肉痛になっているのだ。坂下が人に合わせて練習のきつさを変えたとしか思えなかった。寺町が筋肉痛になっていないのは、まあ坂下としてもそんな無茶はさせられなかったということだろう。寺町を、ではなく、それの相手をさせられる部員のことを考えてた。
「俺も鍛えてたはずなんだけどなあ、さすがに綾香にはついていけないみたいだ」
練習一つでこうも差を見せつけられるとは思っていなかった。実際笑い事ではない。練習すれば確実に強くなるわけではないが、練習についていけない、というのは実力差がある以上致命的な差だ。
「……すみませんが、腕を持ってもらえますか?」
「ん、ああ、了解」
いきなり会話が切れたようにも感じたが、浩之は気にすることなくランの後ろにまわる。相変わらずの鈍感さだ。ランとしては、浩之が綾香のことを口にすることが嫌だったのだが、そんな乙女心を理解できる浩之ではないのだ。
さて、開脚したランの補助をする浩之だが、正直、少々困っていた。
皆けっこうラフな格好をしているのは言った通りだが、ランもTシャツにスパッツという楽な格好だった。柔軟程度ならばそれでもいいのだろうが、ここで問題になってくるのは、その格好だ。
前屈をしているのだが、背中から押すのではなく、ランの脚を前から足で広げて、腕を引っ張るような格好で浩之は補助をしていた。
ランはさすがに身体が柔らかく、寝起きでもけっこうすんなり前屈出来ている。とは言え、無理をしては駄目なので、ゆっくりと確認するように柔軟をしているのだが。
ランのスタイルは、案外悪くない。というかけっこういい。それは綾香と比べられると本人も辛かろうが、少なくとも空手部では一番かもしれない。そんな少女がラフな格好で、身体を動かしているのだ。どうしても目が行ってしまう。
とくに、身体を倒したときの胸の張りとかTシャツの胸元からチラチラ見えるブラとかは、かなり目に毒だった。というか何故スポーツブラではないのか、その理由についていは浩之はまったく考えなかった。
目の保養にはいいのだろうが、かと言って凝視するわけにもいかない。と言ってランにそれを言う訳にもいかず、浩之はかなり生殺し状態になっている。
そして、何より怖いのは、こんな状況を綾香に察知されたときのことだった。坂下に気付かれてもげんこつぐらい飛んでくるかもしれないが、まだその方がましだ。浩之から止めようと言う訳にもいかないので、それはそれで助けになる。
綾香はまだまだ眠たそうだったので、察知されていないようだが、いつちゃんと目が覚めるか分かったものではないのだ。いつ来るのか分からない恐怖というのは、それはそれで怖いものなのだ。
しかし、それでも視線はどうしてもランの胸元に行ってしまうのだから、男の性とは困ったものである。
無心、無心……無心だ。
しかし、浩之はわかっていない。柔軟の補助は、かなり密着するものもあるのだ。いつも葵としているとは言え、一度意識してしまえば、なかなか平然と、という訳にはいかないのが人間だ。
筋肉痛の痛みといつ綾香にばれるかという恐怖とランに悪いという気持ちで、まわりから見ると何故か微妙にびくびくしている浩之の、苦行にも似た練習は、この後柔軟が終わるかで続けられることとなったのだ。
続く