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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(76)

 

「こぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ」

 これだけの強敵を前にしても、堂々と下に腕を構えて、息を吐き出す。

「ぉぉぉぉぉぁぁぁぁか…………かっ!」

 腹の中に息を溜め、最後の一息まで吐き出す。空手の息吹だ。単なる鍛錬の一つなのだが、ここまで完璧に行えば、それだけで相手に対するプレッシャーは凄いし、何より、息吹を行った後の動きが良いのは実績がある。

 下に構えられた腕が、上に来る。本来、実際の戦いでは構えられるような位置ではない、高い位置に、右の拳が来て、軽く握られる。反対に左の拳は開かれ、まるで何かを押さえつけるかのように下に構えられた。

 顔は、不敵どころかこれ以上ないぐらいに笑っている。その凶相は、正直直視して喜ばしいものではなかった。しかし、目が離せないのも事実。まあ、それに見惚れているのはせいぜい一人ぐらいだろうが。

 それに対するのは、こちらは不敵な笑みを浮かべ、構えらしい構えを見せず、右足が半歩前に出て、軽く膝が曲がっている程度の戦っていることすら容易には想像つかない構えを取る、男。

 相手を威圧するどころかそれのみで戦意を喪失しそうな息吹を見ても、せいぜい楽しそうに眉が動いたぐらいで、まったく動じた風もないし、警戒した風もない。しかし、ただ少し構えを変えて立っているだけだというのに、そこにはまったく隙が見えない。まさか、それが戦うための構えとは思えないのだが。

 坂下は、さてどうしたものか、と頭をかいた。多分、坂下が完調であっても、この二人のどちらかになることはなかっただろうが、見る分には、止めるには惜しく、止めない分には責任という角が立つ。

 対峙している二人。片方は、その片腕を天に向かって構え、そこからまったくの無駄なく一直線に打ち下ろしの正拳を打つ、寺町。ここまでは、まあ今までの描写だけでも想像つくだろう。

 だが、もう一人を想像しろというのは難しい。名前が出て来ない、というよりも、この男、実際に戦ったところはあまり話になっていないのだ。まあ、この男が頻繁に出てくるのはどこか間違っているような気がするので、それが正しいのかもしれない。

 しかし、ほんと、どうしてこうなったんだか。

 坂下は、大きくため息をついた。

 寺町昇、VS、武原修治。

 ある意味サプライズなこの対峙に、しかし坂下は頭の痛くなる思いだった。坂下の関係のない場所でやってくれるのなら、どうぞご勝手に、と思うのだが、ここでやられたのでは、坂下が口を挟まずにはおれないではないか。

 一体何があってこんなことになったのか、話は、少しだけ前に戻る。

 

 お昼の準備をしながら、初鹿VS鉢尾というお金にもならないし初鹿にとってはいい迷惑だが、鉢尾にとっては必死な戦いが、どうも鉢尾の勝利で終わったころだった。

「ん? 浩之達は練習に出てるのか?」

 あまり聞き慣れない声に、坂下はそちらを向く。立っていたのは、見事としか言い様のないほどに鍛えられた大柄な男だった。坂下が一瞬で判断したところでは、隙一つない。

 顔自体は見慣れない男だが、さすがに、坂下はこの男を忘れることはなかった。本人と親しく話した訳ではないが、いかんせん、その印象は強すぎる。

「修治さん……だったっけ?」

「ああ、お邪魔だったかな。浩之達をからかおうと思ったんだが、練習でいないんじゃあ仕方ないな」

 別に空手部と一緒に練習している訳ではないので、それを言おうかとも思ったが、別のことに坂下は多少気を取られて、その言葉を言うタイミングを逃した。

 武原修治。浩之の兄弟子にあたる、武原流柔術とかいううさんくさい流派の門下生。

 実際、柔術などという言葉のつく流派に、坂下はうさんくささ以外のものを感じなかった。自身が空手で強いから余計に、格闘技に神秘的なものはないと知っており、そうなると、柔術という身より名の方が先に来そうなものに、好意的にはなれそうもなかった。

 しかし、流派はともかく、坂下は、この男が、坂下が尊敬してもいいぐらいの強さを持っていることを知っている。あの綾香と戦い、実力で拮抗、むしろ押していたと聞けば、他に判断材料など必要ない。

 一度は綾香を追いつめたことがある坂下だからこそ、その凄さが身にしみて分かるのだ。

 柔術という名前はうさんくさくとも、浩之の話を聞く限り、師範である修治の祖父は、この修治に一度も負けたことがないというのだから、本物なのだろう。

 実際、浩之も段々と本物になりつつある。まだまだ負ける気はないし、永遠に追いつかれる気もないが、浩之ならば、いつかあそこまで来るのでは、と思わせるのも事実だ。

 まあ、正直に言えば、坂下だってこの男に興味があった。もちろん異性とかそういうものではなく、一人の格闘家として、綾香と戦えるというのは、何にも優先される資質だ。

 が、そんな印象とは裏腹に、思ったよりもというと失礼だが、坂下の想像よりもかなり、修治の印象は礼儀正しかった。年下の女の子相手にも、へりくだったりはしないものの、どちらかというと腰が低いとすら感じる。

 その凶悪なまでに鍛えてある身体とのギャップで、むしろ好人物なのでは、と思わせるほどだ。

 まあ、普通はある程度以上に強くなれば、落ち着くものだしね。

 坂下はそんな風に結論付けた。確かに、坂下のまわりの強者は、どう見ても危険な綾香を筆頭に、あまり人としては褒められたものではない、ぶっちゃけ人間が一番出来ているのは坂下ではないのか、と思うほどだが、強さは余裕を生むのだから、修治の柔らかい態度にも、疑問は思わなかった。

 ぶっちゃけ、修治が女の子には甘いだけなのだが、まあ、そう思われている方が修治の為だろう。実際、坂下はかわいい、というタイプではないものの、かっこいいと表現できる女の子だ。普通にしていれば、男だって態度が良くなるのは間違いない。坂下にその自覚がないのは問題だが。

「ここには私達と一緒で練習に来たんですか?」

「ん? ああ、まあ、半分はそうだが、半分は遊びに来たようなもんだけどね。別に知り合いがいる訳でもないし、浩之の練習でも見に見たんだが……」

 そんなことはつゆとして想像しない坂下と、女の子には甘いが、別にだからどうこうしようと思っている訳ではない修治は、普通に世間話を始めた。坂下も修治も、いつもとは多少違う口調で、知り合いが見たら笑い出したかもしれないが、坂下は目上の人には敬語を使うし、修治もあまり知らない女の子と親しく話せるほど如才ない態度は取れない。

 実際どうでもいい話を二、三語交わす。明日どころは話したうちから忘れそうなどうでもいい話だ。世間話とはまあだいたいそんなものだし、もともと何となく話しを始めた二人なので、仕方ないところだが。

 突然、修治の目が鋭くなる。

 どこか滑稽だが平穏な時間だったのは、いきなり声もあげずに走り込んで来た男が、まったく躊躇なくそして声もなく、修治に向かって飛び蹴りを放つ、そのときまでだった。

 

続く

 

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