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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(97)

 

 で、そのころ浩之が何をしていたのかと言うと。

 ぽつねんと一人、砂浜を走っていた。

 段々と人は増えて来ているが、まだ朝に近い時間だ。いくら暑かろうが、朝の海は冷たい。それに、この海水浴場は微妙な位置にあるものだから、日帰りで来る海水浴客は、そろそろ到着する時間で、まだ人影はまばらだった。もう少し早ければ、ジョギングをする人間もいるのだが。

 いや、一人でいてもなあ。

 寺町が復活して、料理当番も問題ない、寺町ではなく、寺町を介抱する必要のなくなった鉢尾がいるからだ、と思っていたのだが、どう転んだのか、現在、空手部では鉢尾による料理教室が開かれている。本当にどうしてそうなったのか浩之には本当に分からない。

 普通の空手部ではあり得ないことだが、坂下の空手部は例外的に女子の方が多く、そういうイベントがイベントとして成り立つのだ。その料理教室に、綾香も葵も混ざっているのだ。綾香曰く、「ごめんけど一人で練習しておいてくれる? 別にそっちのバカと練習しててもいいけど」だそうだ。

 これを聞いた寺町はそれはもういたく嬉しそうだったが、浩之は丁重に辞退した。寺町とは色んな意味で戦いたくないのもあるが、さっきKOされた、しかも修治にかなりの技を使われたようだし、さすがに自重すべきだろう、と思ったのだ。

 修治のことだから、ちゃんと手加減ぐらい……してるのか? そういや御木本は起きるのがえらく遅かったし。

 修治がどれぐらい手を抜いたのかはともかく、御木本は地面に叩き付けられた、つまり人一人を地面に叩き付けられるぐらいの力を込められたのだから、簡単に抜けるようなダメージではない。が、その場面を見てない浩之は、気休め程度の修治の良心を信じることにした。まったく信じていないとも言える。

 まあ、料理の練習をするつもりもない浩之は、結局料理ではなく勉強をしなくてはいけなくなった健介の怨嗟の声を聞きながら、寺町から逃げるべく、軽めのジョギングをしていた。長距離走の選手よりも少し遅いぐらいのスピードで走っているのを、軽めと言うのかは分からないが。

 この調子だと、夜は手の込んだものになるのかなあ、と人ごとのように浩之は考えていた。酷いものを食べさされる、という想像がつかないのは、世話焼きの幼なじみの料理がうまいので、それが頭の中で基準となっているからだ。誰だって練習すればそこそこになるが、練習していない人間の料理は、ときとして人の想像力を超える。まあ、慣れてすらおかしなものを作るのは、それはそれで才能なのかもしれない。できることなら一生眠らせておくべき才能だ。

 こんなどうでもいいことを考えるほどに、浩之は余裕があった。当たり前だ、浩之が自主練習でどれほど走っているのか、聞けば皆目眩を覚えるだろう。この程度の軽く慣らす程度のジョギングでは、疲労の内に入らない。

 走るという行為は、身体の総合的な鍛錬になる。ちゃんと走れば、足だけでなく腕にも負荷がかかるのだ。そして、心肺機能に関して言えば、どんな練習の中でも、かなり過酷な内に入る。あの修治も、坂下も怪我がなければ、葵も、綾香ですら、毎日欠かさず走っているのだ。

 無酸素運動の格闘技に有酸素運動のジョギングは必要ない? そんなことはない。どんな運動も、一部分を鍛えれば強くなるようなものではないのだ。まして、格闘技は無酸素運動と言っても、その動きは多岐に渡る。相手を腕力をねじ伏せるのも拳で殴るのも寝技で仕留めるのも、全て違う動きなのだ。パンチ一つしか使わないボクサーが、減量がなくなったらジョギングをしなくなるのか? そんなことはないだろう。強くなるためには、必要な練習なのだ。

 やがて、もっと科学的に運動というものが解明され、本当に必要なものを、必要なだけ練習できるようにでもならない限り、走るという練習法はなくならない。そうなっても残るかもしれない。

 が、それも、ちゃんとやれば、だ。今の浩之はどちらかと言うと身体の疲労を取るつもりで走っている上に、上の空でどうでもいいことを考えているので、効果のほどはあまり期待できない。まあ、朝から濃い練習ばかりしていたのでは、肉体的にも精神的にもまいってしまうので、気を抜くには丁度いいのかもしれない。休憩も、れっきとした練習の一つだ。それを超えるのは、リターンもあるがリスクの方がすぐに大きくなる。

 ……まあ、そのリスクを負わなければならないことも、人にはあるのだ。浩之は、まさにそうで、こうやって気を抜く時間は、何よりも大切なものなのだ。

 とは言え、気を抜きすぎだった。雄三が見ていたら、有無を言わさず鉄拳を食らわせるほどには気を抜いていた。だから、前から走ってくる相手がいるのには気付いても、それに注意を払わなかった。

 まあ、それも致し方ない、まさか、前から走って来る人間が、浩之以上にまわりがみえないなどとは思ってもいなかっただろう。さらに言えば、まさかふらついてくるなどと、考えない方が悪いと綾香辺りならば言いそうだが、浩之には無理だ。

 気付いたときには、すでに相手の顔が眼前に迫っていた。

「うぉっ?!」

「えっ?!」

 お互い、素早く避けようとした。そこまでは良かった。スピードも速かった、両方にかなりの反射神経が備わっていた証拠だ。だが、両方が同じ方向に動いたのでは、まったく意味がない。というか避けた分自由に動けなくなって、余計に悪い。浩之は何とか顔同士がぶつかるのは回避したが、相手の胸に顔がぶつかるのは回避できなかった。

 そして、顔が柔らかいものに挟まれる。

 女性! 浩之はエロい気持ちを出すよりも早くその考えに達すると、倒れながらも素早く体を入れ替え、相手の下に入ろうとした。砂浜で、怪我はほとんど気にする必要はないが、相手が受け身に失敗することもあるし、岩や貝殻があれば怪我もするだろう。女性に怪我をさせるぐらいならば、頑丈な浩之が下になるべきなのは、そんな意識がなくとも、浩之がとっさにそう行動するまでは自然な考えだった。

 だが、浩之が体を入れ替えようととっさに動いたよりも遅く、しかし思う以上に強い力で、相手が浩之の頭を抱えると、浩之の身体の下に入り、自分が下になって倒れた。それに、浩之は抵抗しようとして、しかしとっさのことで何も出来なかった。

 ドスンッ、と受け身が取れなかったのか、なかなか重めの音がして、浩之には痛みにつながらない程度の衝撃が伝わった。普通の女性が受け身を取れるとは思えないので、実際取れなかったのだろう。いや、取れたとしても、浩之が上になったのでは、大した意味はなかっただろう。

 浩之が、慌てて立ち上がろうとしたとき、それよりも早く、浩之の頭を胸に抱えていた相手、胸から考えて女性だろう、がまったく痛みのなさそうな声で声をかけてきた。

「大丈夫? ごめんね、よそ見していて」

「す、すみま……てあれ?」

「あ……れ? 藤田君?」

 それは見覚えのある顔だった。昨日、事故で、本当に事故でだ、そのなかなか立派な胸を、浩之が直視してしまった女性、羽民だった。

 昨日会って、誤解が解けた後は、何でもない話をして、別れた、多分二度と会わないはずの女性と、何の因果か、また会ってしまった。しかも、胸のおまけつきで。

「……と、とりあえず、どいてくれる?」

 それに、羽民の方もすぐに気付いた。みるみる顔が赤くなっていく。ただ、今回はお互いがぶつかった事故の上、抱きしめるような格好になっているのは羽民で、気が動転しているのだろう、腕から力が抜けない。

「えーと、放してくれると助かるんだが」

「え?! あ、ご、ごめん」

 まわりから見れば、ぶつかって運命の出会いをしたようにすら見えるかもしれないが、二人はけっこういっぱいいっぱいであった。

 何はともあれ、浩之と羽民、二回目の遭遇だった。

 

続く

 

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