「せ、せめて命ばかりはっ!」
浩之はタオルケットをはね除けて跳ね起きた。
「……てあれ?」
ひんやりとした空気の薄暗い部屋の中に浩之はいた。先ほどまで、クーラーは効いているものの決して涼しいとは言えない道場にいたはずなのだが。
「あ、センパイっ、よかった、目を覚ましたんですねっ!」
葵の嬉しそうな声が背中から聞こえたので、浩之が振り向くと、女の子座りをした葵の姿が目に入った。跳ね起きた浩之の位置を考えると、先ほどまで浩之の頭はあの柔らかい太ももの上にあったようだ。まったく頭の裏の感触が思い出せないので、非常にもったいない。
「て、何かもの凄い頭が重い、というか痛いんだけど……」
ついでに言えば身体もだるい。一人でも練習はもちろん厳しいものだったが、ここまで身体にダメージが残るほどまで練習をした記憶は浩之にはなかった。これはまるで一戦した上にボコボコにやられた後のような疲労感とダメージだ。というか、本気でKOを食らった後のように頭が重い。
「えーと、葵ちゃん」
「はい、センパイ。とりあえず飲み物どうぞ」
「え、あ、ああ、ありがとう」
ニコニコしながら葵にスポーツドリンクを渡されたので、浩之は疑問を飲み込んでそれを受け取った。まったく邪気の感じられない笑顔で浩之を見ている葵の手前、浩之はスポーツドリンクを口にする。
飲み始めて、浩之は自分の喉が張り付くほどに乾いていたのを思い出した。冷たくほどよく甘い液体が身体に染み渡るようだった。渡されたペットボトルが空になって、浩之はやっと一息ついた。
「ふうっ、やっと一息つけたよ。ありがと、葵ちゃん」
「いえ、気にしないで下さい。センパイは試合の後ですし、それに何より勝ったんですから」
「そうだよな、俺が勝ったんだよな……あれ?」
やっと核心以外を浩之は思い出した。先ほどまで空手部の御木本と試合をしていたのだ。おちゃらけてはいるようだが、どこからどう見ても実力者。それは身体もここまでぼろぼろになるはずだった。
いや、それでも浩之は勝ったはずなのだ。KOされて自分で勝ったことを妄想している訳ではないのは、葵の言葉で分かる。ついでに記憶で言えば、KOレベルのダメージはうけなかったはずだ。
「身体は大丈夫ですか、センパイ?」
「ん、何かもの凄い頭が重いんだが、まあこのぐらいは……」
実のところ葵の太ももに顔を埋めてそのまま眠ってしまいたいぐらいきついのだが、浩之は一応少し強がってみる。まあ葵の太ももに顔を埋めるのはいつだって大歓迎だろう。男なら誰だってそうだ。
浩之の強がりを聞いて、強がりというのは分かっているのかもしれないが、少なくとも深刻な状態ではないのを分かったのだろう、葵は花のような笑顔を浮かべた。
「いくら綾香さんでも、あれはさすがにやりすぎだったので、私がちゃんときつく注意しておきましたから」
後半はちょっと怒っていた。怒る葵も可愛いのだが、非常に珍しいことではある。というか葵が怒るぐらいだから、綾香はよほどのことをしたのだろう。
「まったく、綾香さんも酷いです。あれが素人だったら殺しているところですよ? 聞いてますか、綾香さん?」
「はいはい、聞いてるわよ反省しているわよ私が悪かったわよ」
「うおっ、いたのか、綾香」
いきなり綾香の声が聞こえたので浩之は驚いたが、何のことはない、綾香は横で背を向けて体育座りしていただけだった。いつもの覇気が見られなかったので気付かなかったのは、浩之一生の不覚とも言える。場合が場合ならば命がなくなっているところだ。
「何よ、いちゃ悪い?」
こちらに顔を向けない綾香は、珍しくしょぼんとしている。よほど葵にこっぴどく怒られたのだろう。まあ、綾香を怒って効果のあるのは世界中探してもごく少数だろう。葵はその中の少数というわけだ。正直、浩之が怒っても返り討ちなのは目に見えている。
「いや、気付かなかった俺が悪いんだが……綾香、一体何やったんだ?」
「覚えてないんですか、センパイ? やっぱり一度ちゃんとお医者さんに見てもらった方が……」
葵の心配そうな声に、浩之は手を振って詰め寄りそうな葵を制止する。
「いや、ちゃんと定期的に見てもらってるって。合宿が終わってからも予約入れてあるから」
修治の母親、武原美色が医者であるのは、浩之にとっては非常に助かる話だ。精密検査の日程も組んでもらえるし、そうでなくともこまめに身体の様子を見てもらえる。美色の専門でなくとも、診断の予約を自分で組まなくていいというのは時間の短縮としては非常に助かっている。
「そうですか、それならいいですけど、そうだからいいって訳ではないんです。多少の攻撃なら綾香さんだって手加減できるからいいですけど、あれは危なすぎます」
「いや、だからほんとに綾香何やったんだ?」
「それが、健介の言葉を聞いた綾香さんが、いきなり我に返って、何か言おうとするセンパイの顔を掴んで素早く脚を払って床に浩之先輩の頭を叩き付けたんです」
「……は?」
「掴んでたのは顔だけじゃないわよ、ちゃんと腕を引いてバランスも崩させたから」
綾香が体育座りのまま捕捉を入れる。
「余計にまずいです、綾香さん。ほんとに反省しているんですか?」
「だから反省してるって。してないならこんな格好しないわよ」
それは反省しているというよりはいじけているように見えるのだが、浩之はさすがに自分の身の安全を考えて口には出さなかった。それに、一応ちゃんと聞いておこうと想って、何をされたのか詳しく葵から聞いてみる。
葵の話をまとめると、健介がキスの話を思い出させた後、浩之の顔を正面からつかんだ体勢から、脚を大外刈りのように刈って浩之の頭を床に叩き付けたらしい。
「それは……俺よく生きてたな」
現代柔道で危険とされる投げ技の二つ、体落としと大外刈り。その大外刈りと同じ動きで、かつ綾香のことだから、顔をつかんだのはただ浩之のバランスを崩すだけではなく、力まかせに叩き付ける意味もあったはずだ。
後頭部を綾香の力で床に叩き付けられる。なるほど、葵が怒っても仕方ないぐらい危ない。というか明らかに殺人目的の技だ。どうしても思い出せないが、浩之を綾香は殺すつもりだったようだ。
浩之が一人背筋を凍らせていると、綾香がむすっとした声で口を挟む。
「何言ってるのよ、浩之。あんたちゃんと受け身取ってたじゃない」
浩之にはその記憶はないのだが、命が関わっていたのだ、身体の方は必死だったのだろう。よくがんばったと自分で自分のことを褒めてやりたいぐらいだ。
で、それはよくはないが、まあ程度は酷いとしてもいつものことだからいいとして。
浩之は、どうしてもさっきから気になっていたことを口に出した。
「で、ほっぺにキスの件はどうなったんだ?」
続く