作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(137)

 

 浩之が休んでおいた方がいいと言われながら、性懲りもなく散歩に出かけたのは、何も夕食の準備を手伝うのが嫌だったという訳ではない。

 夕食は外でバーベキューらしいので、最初から浩之の助けは必要としていない。まあ、他の料理であっても、浩之に手伝わせてもあまり役にはたたなかっただろうが。

 安静にしておいた方がいい、というのは浩之も分かっている。御木本がかなり強かったのを含めないでも、気絶するほどのダメージを受けたのだから、医者はともかく、安静にして回復を図るのが正しいのだろう。しかし、こうなったのが本当に御木本と戦った所為ではないのが凄い。病院送りになった御木本も、主な原因が浩之ではなく修治と健介なのだからおあいこだろう。そう考えると、御木本との戦いの方がよほど消耗しなかったことになる。何か間違っている。

 無視するにはいささか微妙だが、ともかくとして、浩之が安静にせずに散歩に出かけたのは、暇だったから、と二人には言っているが当たり前でそんな理由ではない。実際は、気恥ずかしくて逃げたのだ。敵前逃亡もいいところである。

 ほっぺに綾香と葵の二人からのチューをしてもらった後、浩之はまともに二人と視線を合わせられなかった。のわりにはちゃんと二人の恥ずかしがる姿を堪能しているのだから、素晴らしきは下心である。そんなのでも、目が合うと気恥ずかしいのは変わらなかった。そしてさらに言えば、こんな姿を他の知り合いに見られるのはそれ以上に気恥ずかしかった。

 恐ろしいほどのへたれである。まあ、浩之のその考えもあながち間違ってはいないところもある。部員達は三人の動向に興味津々であるし、健介はまあどうでもいいとしても、ランがそんな浮ついた姿を見れば心穏やかにはいられないだろう。少し時間を空けて、ほとぼりが冷めるのを待って帰った方がいいだろう、と浩之は判断したのだ。

 それ以外にも理由はある。綾香と葵の時間が、浩之の看病で取られるのを良しとしなかったのだ。二人にとっても大事な時期、遊ぶのならばともかく、自由になる時間を浩之の看病で高速するのは気が引けたのだ。事実、二人は今日に限って言えばまだそう長い練習を行っていない。半日ぐらい、とは言うが、その半日が勝敗を分ける可能性を浩之は否定できない。

 起きあがったときは多少頭が痛かったが、それもすでに治っているし、浩之は自分が気晴らしに散歩に行くという理由で二人を解放したのだ。さすがは超のつく鈍感である。二人が今誰と一緒にいたいと思っているのか、まったく考慮に入れていない。

 あのまま合宿所にいれば、二人が介抱してくれる以上解放されることはなかったことを考えると、浩之が散歩に出かけたことは正しいのだろう、が、二人とのフラグを立てることを考えると大失敗だ。

 まあ、こちらのフラグを立てればあちらのフラグが立たず、あちらのフラグが折れればこちらのフラグが立つこともあるだろう。今回はまさにそれだった。むしろこっちがわのフラグが立ってしまった、と言うべきなのだろう。

 現在午後四時、一番暑い時間はとうの昔に越えたとは言っても、まだまだ十分に暑い時間である。日帰りの人もいるのだろう、真っ昼間のことを思えば海水浴客は減ってはいるが、まだまだ真っ直ぐ歩けないほどの人がいる。

 まして、今は夏休みに入ったばかり、海水浴場は家族連れだけではない。いや、どちらかと言うと家族連れよりも若い人間の方が多いだろうか。夏の海を楽しむのには、やはりいくらかの若さが必要なのだろう。まあ、雄三みたいな老人もいるので一概には言えないところだが、あれが例外であるのは間違いないところだ。

 ここまで人が集まれば、当然ながらマナーの悪い人間もいるし、がらの悪い連中もいる。ゴミをそこらに捨てる、海水浴用の駐車場があるにも関わらず少しでも近い場所に路上駐車をする者、はては無茶なナンパの上にケンカを始める者、明らかに普通の街中よりも治安は悪くなっている。

 浩之とて自分を真面目とは思わないが、がらが悪いという訳ではない。マナーを一応はちゃんとしている方だろう。まあ、砂浜にいるがらの悪そうな連中の大半はそう見える格好なだけで実際にがらが悪い訳ではないのだろう。実のところ、がらが悪いかどうかは歩いているだけでもすぐに分かるので、選ぼうと思えばすぐに選べてしまう。

 我が物顔で人並みをまったく避けずにぶつかっても反対に睨み付けるように歩くがらの悪い連中。が、そんな者すら素直に未知を開ける一角が浩之の目についた。というか、家族連れだろうが仲むつまじいカップルだろうが、すべからくその一点を避けて歩いている。

「……」

 頭痛を覚えなかった、と言えば嘘になる。浩之に、言葉はなかった。実のところを言えば、見なかったことにしてさっさと右を向いて去りたかったのだが、いかんせんもし気付かれたら何をされるか分かったものではないので、警戒しているのだ。そういう点で言えば、綾香と同等ぐらいに浩之にとってはやっかいな相手だった。

 しかし、幸運かどうかは置いておいて、まあ間違いなく不運なのだが、浩之が対策を練る必要はまったくなかった。何せ、すぐに向こうから浩之に声をかけてきたのだ。

「ああ、浩之か。どうかしたか?」

 沈んだ低い声で、どの方向から見たところで分かるぐらいに不機嫌な顔をしている。声をかけられただけの浩之のまわりから人が離れるのだから、よほどのものだ。これは、綾香が殺気を放っているのと同じぐらいの効果がある。

「あ、ああ、いや、何というか……」

 まさか声をかけないでくれとは言えずに、浩之は言葉を濁した。

 いや、浩之だって自覚があるかどうかはともかく、怖い者知らずではなかなかにあるのだが、ここまで不機嫌そうな修治に対してうかつな口を開くほど無謀ではない。

 とにもかくにも人混みから離れようと、浩之は無難な考えのもと修治に提案する。

「と、とりあえず人混みから出ないか?」

 こんな危険物ここに放置できねえよ、なあ。と浩之は心の中でため息をつく。

 皆それぞれに楽しくやっているところに、今の修治は場違いだ。不釣り合い、というか明らかに害がある。少なくとも人の多い海水浴場に置いておける状態ではない。

「ああ、そうだな」

 低くとも、生気がないとはとても言えない、腹に響くような声で修治は答える。思うよりも比較的簡単に、修治は人が皆無とは言わないまでもそう多くはない言わばの方へ移動した。

 移動している間、一体どう声をかけようか、浩之は悩んでいた。

 また女にでも振られたのか、とは冗談でもとても言えない。実際に振られてへこんでいる修治を見た後では、明らかな追い打ちにしかならないそれはあまりにもかわいそうだし、万が一修治が激昂でもしたら目も当てられない。ちょっと人をからかうために命をかけるほど、浩之は自分の命を軽視していない。

 しかし何にしろ、何かしらの対策は必要だろう。へこんでいるのならば、修治にとってはどうでもよくなくとも、他人の浩之としては、いくら弟弟子であっても人の恋愛事にまで手助けなどできない、まあ問題ない。

 だが、不機嫌となれば話は大きく違う。ご近所様に迷惑がかかってからでは遅いのだ。もっと言えば浩之の命が尽きた後では駄目なのだ。

 修治のやつ、そこらへんを信頼していいものかどうか、ちょっと怪しいからなあ。

 問題とならない程度には、修治には常識も良識もある。浩之としては、そんなに外れてはいないと思うのだが、今日の御木本の件もあるし、常日頃から接している浩之が感じる限り、今の主事からは、危ない方に振れている綾香に近いものを感じるのだ。

 原因は、まああまり考えるまでもない。修治のどこか超然としている部分は、その実力に対する自信から来ているのは間違いないだろう。そう考えると、理由となるものを、浩之は二人しか思い付かない。

 一人は、言うまでもなく武原雄三。唯一と言っていい、修治に礼ではなく実力で頭を下げさせる、浩之の師匠でもある非常識なご老人。

 ……この合宿に来るまでは、この一人だったんだけどなあ。今は、知ってしまった。修治がほとんど無条件で頭のあがらない人間がいるのを。

 武原彩子、プロレスラーであり、修治の姉である非常識な女性。非常識な修治も、身内に弱いと言ってしまえばそれまでだろうが、その身内がああも酷いと、その言葉も空しい。

 ……俺が愚痴を聞くぐらいで済めばいいんだけどなあ。

 一応の努力はするつもりだったが、浩之はそこまで自分が修治を御せるなどと思っていない。自分の身もそうだが、八つ当たりで夏の夜に出るチーマーとか暴走族とかを壊滅しないように、祈るばかりだった。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む