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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(146)

 

 そう北条鬼一には、今まで弟子がいなかった。

 北条鬼一自身は、もうちょっと考えろと言われかねない気楽さで自分の技を人に教える。門下生どころか他の流派の選手にも親切丁寧に教えるし、ビデオを撮りたいと言ってくればそれが北条鬼一を研究して倒す為だと分かっていても平気で撮らせる。知る権利云々の前に一般的に見て失礼な態度を取る記者にはさすがに容赦もないが、普通の取材であれば気さくに受けてくれる。

 その圧倒的な強さと相反するように、北条鬼一は難しい人物だとは思われていない。門下生を鍛える場合はそれこそ鬼のような厳しさだが、不当なしごきをする訳でもないし、それ以外の人間にはむしろ人当たりが良い。綾香にしてみれば冗談としか思えないが、私と公の切り分けの出来た、良くできた指導者だとさえ言われているのだ。

 と同時に、他流からの試合の申し込みも、同じぐらい気楽に受ける。気軽過ぎるぐらい気軽に受ける。門下生の練習試合とか、そういう程度のものならともかく、北条鬼一自身と戦いたいという内容でだ。その結果によってはこちらやあちらにどれほどの迷惑を受けるのか無頓着にもほどがあった。子供の教育や健康の為のスポーツとしてならともかく、看板を背負っているような相手にもお構いなしだ。

 そして、勝つ。当たり前に勝つ。圧倒的な差で勝つ。実際、今の今まで公式にケンカを売ってきた相手で、一分持った者がいないほどだ。練武館のルールならばともかく、総合ルールであり、組み技や寝技を使う者も、最初からまともに戦わずに逃げる者も含めてだ。

 流派の看板については、北条鬼一も練武館の看板を背負って戦っているのだから、条件は同じとも言える。だが、だからと言って花を持たせることもなく、圧倒的なまでの差を見せつけられた相手のことを思うと、あまり褒められたものではないだろう。

 そして、言い放つのだ。「大して楽しめる相手でもなかった」と。

 練武館が空手の流派で最大になったのは、もちろん正規の活動の結果な訳だが、大きくなった理由は間違いなく北条鬼一が勝って来たからだ。他流を倒して名を上げるような無茶な方法が通用しない現代であっても、北条鬼一が一貫して無茶をしてきたからこその名声とも言える。そんな北条鬼一がトップにいるからこそ、格闘技の垣根を越えた大会を安心して開くことが出来るのだ。

 北条鬼一がいれば、何があっても崩れることがない。その安心感が、エクストリームのような思い切った大会を開かせる原動力になっていると綾香は睨んでいる。

 まあ、エクストリームを開く最初の動機は、単に北条のおじ様がわがまま言っただけのような気がするけど。

 そのわがままも、北条鬼一ほどの人物が口にすれば、十分な効果が発揮されるのだ。立場のある人間は、自分のわがままさえ十分に考えて言わなければならないだろう。まあ、北条鬼一という人物が極まった変人であっても低脳でないことを綾香は良く知っていた。周りにとっては迷惑極まりないことだが、無茶なわがままを実現させるほどの実力があるのだ。

 そんな北条鬼一が、初めて弟子を取ったと公言した。これは、格闘技界にとってはかなりの大事件だった。

 北条鬼一に弟子入りしたいと言って来る人間はいくらでもいる。練武館に入り、本部の黒帯のみの練習に入れるだけの実力があれば、弟子と言えなくはないのかもしれないが、北条鬼一は今まで弟子という言葉を使って来なかった。何かこだわりがあると言うよりは、北条鬼一にとってみれば練武館の門下生は後悔は弟弟子のようなもので、自分の弟子というイメージはなかったのだろう。

 全国にある支部の師範でも、三人いる本部の師範代、つまり練武館の中では北条鬼一の次に強いと言われる者達でも、北条鬼一のことを師匠と呼ぶ権利は与えられていない。それが、今更弟子を取ったと公言したのだ。練武館内では上に下にの大騒ぎになったのは想像に難くない。エクストリームを控えた格闘技誌だって、エクストリームそっちのけでその特集を組んだりしている。

 まあ、浩之を弟子に取りたいと言ったときは、このクソジジイ殺してやろうかと思ったものだけどね。

 もうお前乙女とか絶対違うだろうと言いたくなるような綾香の回想はともかく、北条鬼一が弟子を取らないのは有名な話であったので、余計に話題になったのだ。

 綾香にしてみれば、自分が北条鬼一の弟子だと言われたら鳥肌が立つし言った相手を半殺しの目に遭わせるつもりだし、浩之を弟子に取りたいと言われたときは前述の如く殺る気だったが、実のところ、北条鬼一に許可も取らずに北条鬼一の弟子だと言い張った者は過去にも現在にもかなりの数いたりする。何が楽しいのかと言われれば、実際にその強さに心服して弟子を自称したり、北条鬼一のネームバリューを利用しようとしたりするのだ。それほどの実力やネームバリューが北条鬼一にはあるからだが、それについて、北条鬼一は聞かれれば否定したが、わざわざこちらから出向いて口を挟むようなことはしなかった。手を出すほどの価値を自分の名に見いだせなかったのだろう。まあ、そういう北条鬼一の態度が広まっているので、弟子だと言い張っても、皆自称であることがわかっているからそういうつもりで聞く。北条鬼一に弟子として許されたと言えば、嘘つき呼ばわりされるのが関の山だ。

 それに、どれほど北条鬼一の弟子、と口にしたところで、口だけであるのは一目瞭然だった。どんなに格好を真似たところで、鬼の拳は再現出来るものではないのだ。

 北条鬼一と鬼の拳はイコールで結ばれている。北条鬼一と言えば、鬼の拳。凡人どころか一流の格闘家さえ真似ることの出来ないその拳は、真似ることなど出来ない。

 格闘技の動きは、年々解析され、理論付けされていっている。昔は周りから見ればまるで魔法を使っているように見えた理不尽な格闘技の結果も、どういう手順で動き、どうやればそれを再現できるのか分かって来ているのだ。

 しかし、北条鬼一の鬼の拳は、それを真っ向から否定するのだ。あんな構えで、普通はまともに戦うことなど出来ない。

 ぶっちゃけ、あんな非効率な構えが強い訳ないじゃん。

 綾香は自分の三眼時の動きを完全に棚に上げて、北条鬼一の非常識さをそう表する。

 だが、確かに北条鬼一は強い。鬼の拳、その構えをしていても強い。あの構えだから強いのではないはずなのに、そう思われてしまうほどに強い。綾香だって、楽勝などとは決して言えない相手なのだ。

 非現実的な話だが、北条鬼一という鬼が使って初めて、あの天に向けて構えられた両の拳は鬼の角としての威力を発揮する。技が規格外なのではない、北条鬼一が規格外なのだ。なのだと、綾香は思っているが、北条鬼一に関して言えば、綾香としても自信を持って断定出来ない。

 とにかく、北条鬼一以外に真似られないのだから、弟子などとっても無意味だ。北条鬼一自身、技を気楽に教えてはくれるが、教える前に言葉を少し変えて無意味だと言っている。

 今までは、そうであった。

 だが、今、目の前にいるのだ。北条鬼一自身が、弟子だと言った男が。

 北条鬼一と同じように規格外、というかどちらかと言うと単なる社会不適応者の低脳としか言えない、格闘バカが。

 

続く

 

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