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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(147)

 

 ここ、この練習場の中で、今まともに動けて、そしてまともに動こうと思っている者の中で、その格闘バカの相手を出来るのは、もしかせずとも綾香と葵だけであろう。寺町が本気を出せば、池田や中谷では苦しいだろう。むしろこんな無尽蔵な体力を誇る寺町相手に、二人はよくやっているとも言える。

 しかし、だからと言って、綾香は寺町の相手をする気はまったくなかった。葵はいい子だから自分の気が乗らなくても一応相手をするかもしれないが、と言ってもやはり気乗りはしないだろう。やる気満々で寺町の相手をする、ということは万に一つもあるまい。

 ただ単純に、寺町が綾香や葵と戦えることになれば涙を流さんばかりに喜ぶのが目に見えていて、それがうざい、という理由もある。というかそれだけでも綾香としては寺町に近づきたくない。そして、この予想は大方外れないだろうから、綾香としては余計にげんなりする。

 寺町自身に対しても、綾香はまったく興味などない。北条鬼一の弟子という部分は無視するには大きい内容ではあるが、寺町という個人自体には、何の魅力も感じないのだ。いや、もちろん北条鬼一の弟子という部分は寺町本人に自覚があろうとなかろうと無視して話を進められる内容ではないし、試合を経験して一日で恐ろしいぐらいに成長した浩之を倒した実力は認める。試合をすれば、実力以上にやっかいな相手で、綾香にしたって簡単に勝てないだろう予想もつくので、戦えばその過程で綾香自身、興に乗ってしまうことはあるだろう。

 寺町本人のことは否定的だが、北条鬼一が寺町を弟子にした意味、それが分からないではないのだ。

 それに、北条鬼一の弟子という看板がなくとも、綾香はこの格闘バカを無視することはできないのだ。さっきも出した、もう一つの理由から。

 浩之を負かした、格闘家。

 何度も何度も、綾香自身、浩之を倒している。普通の男であれば自信喪失どころか、精神の均衡を保っていられないほど、浩之を倒して来た。

 練習だから関係ない? そんなことはない。綾香の経験がそれを証明している。綾香が、過去何度人にトラウマを植え付けたと思っているのだろうか。その経験から、綾香は学んでいる。人の心は、綾香にとっての他人の身体以上に脆いことを。

 しかし、浩之は綾香の前に、それでも立っている。素人だからプライドなんてなかった、などという簡単な説明では追いつけないほど、浩之はタフネスで。

 決して綾香は苦しんでいた訳ではない、それを飲み込むだけの強さがあるからだ、が、それでも浩之によって救われた気持ちになったのも事実だ。

 負けを苦にしない、というタイプではない。負けず嫌いなのは綾香も顔負けなほどだ。不利だからって躊躇しないし、負けたことを軽くも扱わない。ちゃんと負けた意味を考え、それを糧に出来る、プロのスポーツ選手、それも一流のだ、が持つような精神構造を、浩之は持っていた。

 しかし、そんな浩之であっても、勝敗の結果のみにおいて、無視出来ない負けというものもある。それが、あの格闘バカ、寺町によってつけられた黒星だ。

 浩之には、寺町に含むものはないだろう。綾香から見てもそうだし、浩之の頭の中身を解剖して調べたとしても同じ答えが出るだろう。負けたことをいつまでもただ負けたというだけで抱えてられるほど、浩之は暇ではないのだ。負けたことを振り返り、改善点を見つけて成長の糧にすることに意味があるのであって、負けたことを嘆いたところで物事は好転しないし、浩之は自覚があるのかどうかは分からないが、確かに勝ちも負けも糧としている。

 だが同時に、あの負けを、浩之はずっと覚えているだろう。忘れたくとも忘れることが出来ないだろう。おそらく、今後起きるであろう浩之の勝ちと負けのどれと比べても、あの負けは強く浩之に根付いているだろう。

 勝ちを知った日に、負けを知った。そのタイミングも悪い。

 寺町という、変わり者であることもさることながら、印象に強く残る強さも間が悪い。

 あのとき、綾香がいて、悔し涙を浩之が流したのも最悪だ。あれ自体は、綾香にとっては大切な思い出だが、浩之としては、おそらく顔から火が出るほど恥ずかしい思い出になっているだろう。

 何もかもが、うまく機能した。いや、何もかもまずかったと言う方が正しいのか。あの負けは、浩之の心に刻まれてしまった。

 それが、綾香には気にいらない。できることならば、寺町を殺してなかったことにしたいぐらいに。

 人はそれを、嫉妬という。

 綾香は、寺町に対して嫉妬しているのだ。浩之の、例え僅かな一部分であっても、自分以外のものに割かれていることがどうしても許せないのだ。それが一時的なものでも我慢の限界だと言うのに、一生そうであろうと思うと、言葉通り、寺町を殺したい。

 しかし、だからこそ、綾香は寺町にはまったく興味がない。殺そうとも思わないし、ただ戦おうとすら思わない。その点に関しては、おそらく葵も同じ気持ちであると綾香は推測していた。

 戦う? 私が寺町と? バカを言っては駄目だ。

 寺町と戦うのは、綾香や葵の役目ではない。浩之の役目だ。浩之にのみその権利がある。綾香や葵が寺町と戦ってぐうのねも出ないほどに倒したところで、何の意味もない。浩之自身が寺町を倒して、やっと浩之はあの負けを帳消しに出来るのだ。

 今戦えば、浩之は寺町には勝てないかもしれない。しかし、先の未来は分からない。浩之が強くなると同時に、寺町が非常に波長の合う北条鬼一の指導の下で強くなったとしてもだ。

 修治や雄三の指導力に期待するというのも綾香にとってみれば気に喰わない話だが、浩之が強くなるのならば、それものんでもいいことだ。それに実を言うと、綾香の予想では、二人は浩之を強くこそすれ、影響するようなことはない、と思う部分もあるのだ。これは単なる綾香の想像であるが、あまり外れているとも思っていない。

 北条鬼一の指導? そんなもの犬の餌にもならない。いや本当にならない可能性があるのが北条鬼一のアレな部分ではあるが、もし十二分に発揮したところで、綾香はそれを脅威と思うことはない。

 例え、修治や雄三の指導よりも北条鬼一の指導の方が上回ったとしても、浩之ならば関係なく強くなり、寺町を越えることは綾香にとっては確信だった。ただし根拠はない。

 さすがにそれはひいき目に思えるが、まわりの見えていない、または凡人とはまったく違うものが見ている綾香に対しては、言っても仕方のないことだった。

 

続く

 

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