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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(152)

 

「正面に、礼!」

 唯一の三年生、芝崎の号令に合わせて、皆が頭を大きく下げる。綾香と葵も一応一緒になって頭を下げる。いつもは坂下の役目なのだが、坂下は夕食の準備中だ。まあ、それならば向こうの部長である寺町がすればいいもの、実際あちらの空手部ではやっている、だが、坂下が悪いのか寺町が悪いのか、合同の練習では、どうしても坂下の空手部の方が主導権を持って練習する癖がついていた。

「……よし、今日の練習、終了!」

 その合図と共に、皆その場にへたり込んでいた。練習をしていて座り込まなかったのは、寺町と、ほとんど指導だけにまわっていた芝崎と、綾香と葵ぐらいだろうか。

 ただし、寺町はもっと豪快であり、その場に倒れ伏している。まあ、池田と中谷をかわるがわる相手にして組み手をやっていたのだ。今まで動けていた方が驚きだ。その点を言えば綾香も葵も同じだし、寺町に負けないほどは動いていたが、それは体格の差もある。同じだけ動けば体格の大きな寺町の方が疲れるのだ。ただ、そういう当たり前のところに落とすには、寺町も綾香も葵も規格外ではある。

 それでも、寺町よりも池田や中谷に同情が集まる辺り、寺町がいかに無茶をしていたのかが分かろうと言うものだ。

「どう、葵? 後半は集中出来てたみたいだけど」

「センパイを綾香さんが落としてから落ち着けたのは自分でもどうかと思いますが、まあそうですね。前半流し気味だったので、少し練習が足りないかもしれません」

「まあいいじゃないの。まだ明日も夕方まであるんだし、ほんとに足りないなら夜に練習するって方法もあるしね」

「でも、あまり遅い時間にお風呂に入ると面倒をかけそうですし」

「先に言っておけばシャワーぐらいは使えるんじゃないの? むしろ気をつけないといけないのは、のぞきとか知らずにシャワーあびに来そうな浩之だと思うけど」

「確かに……覗きはともかく、センパイの場合意図せずに入って来る可能性は否定できません」

 部員達は、うえっという顔で、ただし誰しも疲労で顔をあげれてなどいないのだが、綾香と葵が呑気に話す内容を聞いていた。あれだけ動いて練習が足りないとかないわ、というのが総意だ。

 しかし、寺町もそうだが、それも致し方ないことだ。空手部員達は、確かに運動を何もしていない人間よりも体力があるし、坂下に鍛えられているため、平常心さえ保てば下手な素人などには負けることはないだろうが、それでも素人に毛が生えた程度だ。この三人は違う。

 エクストリームの本戦に出る、ということは言わばプロだ。綾香は一度優勝しており賞金を稼いでいる以上、完璧なプロであり、そもそもの基礎体力から一般人では話にならないほど高いのだ。練習一つ取っても一目瞭然なのだ。

 空手どころか格闘技自体素人っぽい先生はともかく、坂下に挑戦するほどには格闘技に傾倒している芝崎などは、苦笑以外のものが出て来ない。自分の青春をかけてきたものよりも遙か先に、少なくとも綾香と葵がいるのに、それなりに高い位置にたどり着いているからこそ理解できるのだ。苦笑しないのならば、今すぐふて寝したいぐらいだろう。

 芝崎にとってみれば、坂下に破れて夢砕かれた身だからこそ、流すことが出来たとも言える。でなければ、苦笑やふて寝で済んだとは思えない。本当に、怪物はいるところにはいるものなのだ。

 しかし、すでに破れた芝崎は、深くは思い詰めなかった。どうひねったところで、実力以上のものは出ないのだし、拘るだけ無駄なのだ。それに、芝崎には芝崎のやることがあった。まあそれは坂下に敗れて、後輩の指導を押しつけられたということなのだが、最近はそれも悪くない、と思うようになっていた。

「ほら、お前ら倒れてないでさっさと女子は風呂入れ。その後に男が入らないといけないから手早くな」

 場合によってはセクハラにも取られかねない芝崎にどやされて、部員達は何とかのろのろと動き出す。芝崎がそういうキャラではないのもあるが、いちいち反応出来るほどの力が残っていないのだ。

 先輩に対して生意気な口を聞くことが出来ない、という訳ではない。坂下相手にだって部員達はちゃちゃを入れるのだ。芝崎など恐れるに足らずだ。まあ、坂下はあれで話は分かるので、日常会話としてならばそう怖いこともないのだが。

 むしろ積極的に生意気なことを言う者も多い空手部でも、今は口数が少ない。二日の間、合間合間に休憩は挟んであるとは言っても、厳しい練習を何時間もやってきたのだ。それに今は道場の中には冷房がかかっているが、それでもずっと涼しい中にいるわけでもなく、暑さで感じる疲労もバカにならない。皆が倒れているのは至極当然だろう。

 その中でも、一番早くに動いたのは、ランだった。まあこれも当たり前とも言える。池田と中谷が寺町の相手をしている以上、ランは他の部員と練習するしかなく、一歩抜け出した面子で一番下であるランだが、少なくともその抜け出していない一般の部員と比べれば一番強いのだ。練習は相対的に楽になる。まあ、そんな一番楽だったはずのランでも動き出すのに時間がかかるというのが練習の厳しさを表しているのだが。

 ランだって、このまま寝転がっていたいという気持ちは大きかった。汗をかいたままで寝れば身体には悪いだろうが、そんなものを気にする以上に疲れていたのだ。ランが動き出したのは、さっさとお風呂に入りたかったのもあるが、少なくとも早めに男子にお風呂をまわしてやろうという考えからではない。

 今、浩之先輩が夕食の手伝いをしているはずだから、お手伝いはともかく、少しは話す時間ができるかも……

 そんな健気な思いからだった。綾香と葵は余裕で世間話をしているが、ランにはそんな余裕はないのだ。すでに芝崎ではないが、夢破れた後で何が出来る、と言われるかもしれないが、ランはあきらめてなどいないのだ。

 少なくとも、一緒に話をするだけでも、ランには嬉しいことなのだ。例えそれが報われないことであると分かっていても、だからと言って距離を取る、などという器用なことが出来ないのがランだ。臆病ではあるので、出来たのならやっているかもしれないが、出来ないのだから仕方ない。

 そんなランの動きに、葵はともかく、綾香は気付いていたが、止めようとはしなかった。それは敵に塩を送るようなものではなく、もっと残酷な行為だった。

 どんなに頑張っても、浩之がランに振り向くことがないことを知っているのだ。いや、であれば浩之が綾香にだけその愛を注いでくれるのか、と言われると、綾香としても正確には答えられないのだが。それを指摘するのを、綾香でも怖いと思うのだ。

 そういう意味では、綾香も臆病であったのかもしれない。さらに言えば、ランよりは器用だったのだろう。臆病で器用であれば、逃げの手を使う可能性は高い。しかし、綾香と逃げるというものは、非常に相性が悪そうに思うのだが。いや、相反する、と言った方がいいのかもしれない。

 弱くて依存するタイプのランと、最終的にその力を持って全て壊してしまって来た綾香、いい勝負なのかもしれない。

「とりあえずお風呂に行きますか。それから、お風呂あがってから、センパイには後でもう一度謝って下さいね」

 浩之を絞め落とした、正確には痛みで気絶させたのだがそっちの方がよほど酷い、ことを蒸し返して来た葵に、綾香は苦笑する。一応、さすがにやりすぎた、と綾香も思ってはいる。ただ、葵が素直に綾香に怒っていることに、どこかおかしさを感じたのだ。

 依存型と言うには強く、立った後は真っ直ぐに進む葵。案外、一番強いのは、葵なのかもしれない。まあ、一番の強敵であることは昔から知っている。格闘技で負ける気などさらさらないが、最近はそっちではない方でも、正直一番怖い相手だった。

「……そうね、私もちょっと悪いことしたらか、あやまっとかないとね」

 いや、ちょっとか、と部員達がつっこみを入れたくなったのは、仕方ないだろう。

 

続く

 

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