カポーン、と音が響いたわけではないが、そんな気分で私はお湯につかっていた。そんなに大きくはないお風呂だけれど、私も他の部員達も浸かったまま動こうとしない。というか、動けない。
家でもそんなに湯船にはつからずにシャワーだけだった自分だが、ヨシエさんの指導を受けるようになってからは、お風呂が好きになっている自覚があった。シャワーでは汗は落とせても疲労までは落とせないのだ。お風呂に入って疲労が抜けるのならば苦労はないのだろうが、意味がないことはないだろう。少なくとも精神的にはかなり違う。
とは言え、多人数用とは言っても部員全員で入ってしまうと芋洗い状態になってしまう。いや、今もかなりそれに近い状態ではあるのだが、それでも皆湯船から出ようとしない。いや、出ることができないのだ。
たった二日、しかしその二日の練習で、皆疲労がたまっているのだ。この疲労で、ゆっくりゆるま湯につかっている今の状態は極楽だった。今が夏で暑いことを考慮しても、このままずっとお風呂に入ったままでもいいぐらいだ。
しかし、このままお風呂に入っている訳にもいかない。先に入ったが、女子ですらまだ半分は出てくるのを待っているのだ。男子の順番がいつまわってくるのかまでは気にしても仕方ないが、いつまでも長湯をしている訳にもいくまい。
だが、そう考えても動きたくなかった。自分でも分かっているが、この合宿では、私はむしろ楽な方だったのだ。強い人間は寺町の相手をするので精一杯であったし、現在私の相手をする中で一番強い御木本も途中でリタイアだ。相対的に私の練習は楽になった、はずなのだが、その私ですらこんな状態なのだ。他の部員達はいわずもがなである。
この中で元気なのは、せいぜい来栖川綾香と松原さんぐらいだろうか。まあ、正直あの二人は人類の枠からはみ出しているように思える。二人とも身体を洗って少し湯船につかっただけで出てしまった。まあ、あの見事な来栖川綾香の身体を見ていると腹が立つだけなので、さっさとあがってくれたのは嬉しいのだが、実際のところ、先にあがられるのはまずい。
私としては、汗を流して浩之先輩と少しでも話をしよう、と思っていたのだが、あの二人に先を越されては意味がない。今のところ、私は浩之先輩達のメンバーではなく、空手部として動いているので、ただでさえ浩之先輩と別行動なのに、こういうチャンスを逃すとは、自分のうかつさが憎らしい。
いや、うかつ、というのは間違いかもしれない。お風呂が気持ちよすぎて出られなかったのはうかつというかバカだ。いや、今でもさっさとあがって浩之先輩と話をすればいいのだ。それが出来ないのは、何も来栖川綾香と松原さんに先を越されたからだけではない。
正直、浩之先輩にうとましく思われていないかが心配なのだ。浩之先輩がそういうことを考えない人なのは分かっているが、告白を断られたのにそれでも積極的に近寄っていく女が良いようにみられているとは思えない。
それも杞憂だろうとは思うのだが、考えるとどうしても悪い方向にいってしまうのは仕方ないだろう。
いや、それならばそれであきらめれば良いのだ。だが、それでも話したい、と思うのは私のわがままなのだろう。
別に何がなくてもいい。あきらめるなんてしないけれど、浩之先輩が私になびかないのは分かっている。それでも、ただ会話しているだけでも楽しいのだ。近くにいて、浩之先輩の顔を見ているだけでも、私は満たされるのだ。
……よし、あがろう。あがって浩之先輩と来栖川綾香達の輪に入ろう。今なら、ヨシエさんも初鹿さんもいるだろうから、会話に入るのも難しくはないだろう。結局、悩んでいても仕方ないのだ。
意を決した私は、湯船から立ち上がる。と、横で同じくほうけていた田辺さんが、こちらを向いて弛緩した顔で話しかけて来た。
「あ〜、ランちゃんあがるんだ〜」
「……ちゃん付けは止めて欲しいんですが」
「え〜、ランちゃんとかかわいいと思うけど。それに、初鹿さんだっけ、あの人もそう呼んでるじゃない〜」
決していつもきっちりかっちりしているような人ではないが、それにしたってだらけ過ぎだった。健介の相手をいくらかしていたので、田辺さんも他の部員達と比べれば楽だったはずなのだが。それとも健介の相手は練習よりも疲れるのだろうか。
初鹿さんが同行する、というのは頼もしくはあったがそれ以上に色々と不安なことも多かったが、その中でも一二番に問題だと思ったのがこれだ。
初鹿さんは部員がいようが誰がいようがまったく気にせずに私のことをちゃん付けで呼んでくるのだ。友達が真似るのは至極当然とも言える。
「田辺さんんだってちゃん付けは困らない?」
「……健介にちゃん付けで呼ばれるの想像してちょっと寒気が走った」
田辺さんの想像力は、私の常識を越えるようだ。言われて想像しようとして、想像できなかった。健介はあれでそんなに女の子の扱いは下手ではない、わざと怒らせるようなことはあっても、田辺さんの話を聞く限りは気はきくようだが、女の子をちゃん付けするタイプでは絶対にない。
それに比べて、同じ嫌でも御木本が言うのは簡単に想像できるのは、さて本人達にとってはどちらがいいのだろうか。少なくとも、この二人からはちゃん付けでは呼ばれたくないのは確実だ。本気で寒気が走る。
「まあバカは放っておいて、ランちゃんはランちゃんで決定〜」
ここで否定してもこのまま続けられそうなので、私は黙ることにした。できれば、このままこの話題が疲労と一緒に頭から抜けてくれれば助かるのだが。
「とりあえず、私はもうちょっと入っていくから、バカが勉強さぼってないかぐらい確認しといてね〜」
「……サクラさんの監視があるので、問題ないんじゃないですか?」
「あのサクラさん、どうも健介と知り合いみたいだけど、健介のやつ、どこであんな女性と知り合ったんだか……」
まさかマスカレイドとは言えず、私は曖昧に笑って聞き流した。まあ、彼女としては、胸があんな大きな女性が彼氏の近くにいるのはいい気がしないのだろう。田辺さんは胸はそこまで大きくないので、余計に。
「ランちゃん、何か不当なこと考えてなかった?」
「何のこと?」
私はギクリとしたが、それを表情に出さないようにしてしらばっくれた。私はそこまで胸に関してはコンプレックスとかはないので気にならないが、確かに来栖川綾香と身体のどこを比べられても悔しい気持ちになるので、田辺さんとそう変わりはしない。
しかし当然、まったくごまかせていなかったのだろう、田辺さんの目が座っている。こうなっては仕方ない、私はそそくさと逃げるようにお風呂から出た。
脱衣所に出ると、私は髪を拭きながら、スポーツドリンクを取る。水分補給のために脱衣所に置いてあるのだ。これがコーヒー牛乳ではないのは、雰囲気よりも水分補給の実を取ったためだ。
氷水で冷やされたスポーツドリンクは、疲労とお風呂の熱気と身体のだるさを合わせて訳がわからなくなっている身体に染み渡るようだった。
一気にコップ一杯を飲み干して、私は大きく息を吐く。このときこの瞬間だけは、私は浩之先輩やその他の煩雑なことを忘れた。
そしてふと思い出したのは、御木本のことだった。浩之先輩に負け、健介にとどめを食らって病院へ行ったバカだ。まあ、夕食の前には戻って来るだろう。別に戻って来なくとも気にもならないが。
御木本のことを思い出したのを、不覚とはさすがに思わなかった。最近は色々とからむことが多い、そうなれば必然的に考える時間も増えるのは致し方ないことだ。
いくらヨシエさんのキスに目が眩んだとは言え、浩之先輩にケンカを売ったのだ。病院送りにされても仕方なかったところだ。まあ結局最後のとどめこそ健介がやったが、浩之先輩が勝ったのは間違いない。
バカなやつ、だと私は御木本のことを切って捨てた。
と同時に、私はまったく反対のことを考えていた。
浩之先輩は強い。強いが、いくらKOを食らった後だとしても、御木本を倒せるほどに強いとは感じていなかったのだ。
そう、不本意ながら、御木本は強い。だからこそ、私は驚いているのだ。浩之先輩に、御木本が負けたことを。
続く