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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(166)

 

 そこを何とかとねばってくる鉢尾から逃げるようにというか完璧に逃げるために浩之は炊事場から出ると、後を追って来られてはたまらないとそのまま外に出る。

 さすがに、鉢尾が追ってくる様子はなかった。寺町のために浩之を説得するのも重要ではあるだろうが、それでも朝食の準備を放っておいてそちらにかまけることはしなかったようだ。浩之としても朝起きたばかりで全力で逃げなくてよくて一安心である。走れば鉢尾から逃げ切る自信はあるが、そういう問題でもない。何より準備運動なしで朝から全力疾走は身体に悪い。

 準備運動なんてしなくても動けないといけないって師匠は言うけどな。

 常時戦場とか今のご時世流行もしなければ必要もない。何せ浩之の今目指しているものはエクストリームだ、試合の開始の合図がない限り戦うことなどないのだ。それにそうは言っても、雄三も修治も準備運動をしている。備えるのと準備しておくのはまた違ったことなのだろう。

 浩之だけではなく、どんなスポーツであろうと格闘技であろうと、怪我の可能性はできるだけ減らさなくてはならない。いきなり身体を動かすというのは、そのリスクをあげるだけなのだ。必要あればそれも致し方ないのだろうが、事前にやれるのならばやっておくに越したことはない。

 鉢尾のような素人に追いかけられたぐらいで、とも言われるかもしれないが、怪我をするときは最大の力を使っているときばかりとは限らない。軽くこけただけでも人は骨を折ることがあるのだ。それは普通に生活していればいついかなるときでもある危険ではあるが、身体を動かすだけで上がるのは確かなのだ。

 ここで怪我なんかしたら、ほんとに台無しだしな。寺町と戦うなんて、それこそいつ怪我するか分かったもんじゃねえしな。

 ただ、浩之も多少なりとも自覚はある。怪我のことを置いても、浩之自身が寺町と戦うことを避けていることを。しかし、それも致し方ないことだろう。言ってしまえば、寺町は浩之にとってはトラウマの張本人でもあるのだ。勝つことを知った日に浩之に負けることを教えた格闘バカとは、いつか勝たなくてはいけない相手ではある、が、何よりも怖い相手でもあるのだ。

 まだ、結果をかえられる自信が、浩之にはないのだ。本戦まではもう時間もない。それまでに勝機を呼び込めるほどに強くなっていなければならないのだ。時間は、ない。

 間隔をあけて襲って来る焦燥感に、浩之は人知れず身震いする。が、それに押しつぶされるようなことはない。そんな暇はないし、何より、それは葵やランとは違う、浩之の強さだった。

 浩之は頭を振って気分を切り替えると、まだ冷たい空気に身体を慣らすように柔軟を始める。しばらくしていれば、すぐに暑くてかなわなくなるとしても、身体が熱を持つまで柔軟を続ける。

 柔軟も終えてランニングに切り替えるかと考えるころに、お腹が空いて起きたはずなのに、そのままランニングをしようとしている自分に苦笑する。コンビニまで行く準備としては準備過多だし、そもそもコンビニに行く気すらなくなっている。

 どうしたものか、と浩之は柔軟を止めて考える。さすがに食べてすぐに走るのは浩之としても辛い。

 しかし、そう考える以上、すでに答えは出ていた。ここまで準備をしたというのにランニングをしない意味もない。それに、浩之にとってみれば遊びも食事も重要ではあるが、時間が一番足りていないのは練習なのだ。できることは、やれるときにやっておくべきだろう。

 ランニングから帰って来るぐらいには、朝食の準備もできてるかもしれないしな……いや、コンビニで帰りに何か買って帰るべきだろうな。今鉢尾と同じ部屋にいると猛烈なアタックを受けて、浩之にとってはまったく嬉しくない、あの格闘バカだけを喜ばすことになってしまいかねない。浩之は押しは強いかもしれないが、押されるのには同じぐらい弱いのだ。

 そうと決まれば善は急げだ。浩之は軽くその場でジャンプして身体に不調な部分がないことを確認してから、おもむろに走り始めた。足取りは、万全な状態を思えばやや重いか。

 ただ、正直浩之は万全の自分というのをいまいち思い出せない。鎖骨にヒビが入っているときですら身体を鍛えるのを怠っていなかったのだ。その間、常に自分の身が疲労するほどの強度で練習を続けてきた。まったくの万全という状況を、この1、2ヶ月ほど感じたことがないのだ。

 ただ、分かっていることがある。万全な状態で走っていたときよりも、今の方が速く、そして息がまったくあがっていないことを。練習は、確かに浩之に成果を示していた。

 成果、ねえ。

 明らかに強くなっている身体能力を感じながらも、浩之は唇を歪める。過程の成果など、何の意味もないのだ。

 結局、相手を上回って勝たない以上、その成果に何の意味もない。寺町から半分逃げるようにしている自分の成長に、意味などないとすら思う。

 それでも。

 浩之は、砂を蹴って走る。足が砂に取られて前に進めない、ということもない。浩之の元より優れていた上に訓練が加わった瞬発力は、砂のような柔らかい地面でも最大限に力を伝える。

 浩之に、躊躇している暇はなかった。今超えられないからと言って歩みを止めることはできない。この脚のように? いや、それは止めることができないのではない。

 すでに、歩みの止め方を忘れていた。止まるときは、それは全ての決着がついたときか、浩之という人間が終わるときだけだ。

 まあ、こうやって走っていること自体は、浩之の体力が尽きるなりまた別に気を取られるようなことがあれば止まるのだが。

 実際、浩之は走るのを止めた。それはすでに走り始めてから1時間近く経ってすでに合宿所の近くまで戻って来たときだった。

 体力は尽きかけているが、それはエネルギーが切れてしまった、つまりはお腹が空いた状態であり、走ろうと思えば後一時間ぐらい走ることはできただろう。

 もちろん、こんなところで全てが済んだわけでもないし、浩之という人間が終わったわけでもない。ただただ、気を取られるような光景があったからだ。

 やっと明かるくなって来たこんな早朝に、けっこうな人が固まって集まっていたのだ。まあ、この時間でも運動部の合宿とかではランニングをしているところも多く、浩之もそんな団体と何個かすれ違いはした。だから、ただ人が集まっているだけならば気を取られることはなかっただろう。

 しかし、その集まりがどうも言い争っているとなれば、気にするなという方が難しい。

 まあ、運動している者には気の荒い者もいるだろう。そうでなくとも、そこには他人がどうこう言うべきではない問題があるかもしれない。だから、看過できない問題がない限り、浩之はスルーするつもりだったのだ。

「……あれ?」

 しかし、看過できなかった。問題があるないの問題ではないというかそもそも問題であるのはその諍いの中心人物である。

 片方は、何と浩之の習う武原流柔術の師匠の孫であり修治の姉、武原彩子。諍い、と言っても、彩子の顔には余裕の笑みが張り付いている。その諍いを楽しんでいるようにすら見える。

 もう彩子が出て来た時点で問題なのだが、しかし、その彩子を相手にしている中心人物らしい人間にも、浩之は見覚えがあったのだ。

「何で、羽民さんが彩子と?」

 

続く

 

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