葵はすでに明るくなった砂浜を一人、歩いていた。目的はあるが、行き先はないので、彷徨う、と言うのがやはり正しいのだろう。さしたる土地勘もなく、知らない場所を一人で歩くというのもなかなかに勇気のいることではあるが、海岸に沿って歩いているので迷うことはないだろう、というのが葵の考えだった。まあ、葵は多少天然は入っているが、その記号の中に極度の方向音痴というのはないので、その程度の常識があれば合宿所に帰ることぐらいはできるだろう。
合宿の三日目最終日、何故こんな朝っぱらから練習でもなく、あたりをきょろきょろとしながら葵が砂浜を歩かなくてはいけなくなったのか。その理由は、綾香半分、浩之半分、と言ったところだった。
今日、葵を起こしたのは、何故か真剣な表情をした綾香にだった。
朝には弱くも強くもない葵と、確実に弱い綾香の組み合わせから、葵が綾香に起こされることなど珍しい話だった。別に葵が寝過ごしたわけではない。まだ空手部員達は数人起きているだけのところをみると、起床時間ではあったようだ。
「ど、どうしたんですか、綾香さん、真剣な顔をして」
朝から綾香が真面目になる理由がさっぱり思い付かず、葵は何があったのか、寝起きの頭をできるだけ働かせようとした。
「浩之が、逃げたわ」
どうもまったく真面目な話ではなさそうだった。葵は二度寝を決め込もうかとも一瞬考えたが、葵の元来の真面目さが綾香の不真面目さに勝った結果、しぶしぶ、という感じではあったが、葵は綾香に話をうながす。
「逃げるって、綾香さん、またセンパイに酷いことでもしたんですか?」
また、というのは、いつもの猫とライオンのじゃれ合いのような浩之は必死だが綾香は遊んでいるつもりのそれではなく、御木本との試合の後に、綾香が思わず浩之をKOしたことを言っている。最近は、綾香が手加減をすれば浩之は何とか逃げれるところまで強くなっているが、綾香がやる気を出したり、とっさに手加減を忘れたりすると、あのように簡単に大惨事だ。
葵としては、話をうながすと同時に、昨日のことをちゃんと反省してますか、と皮肉ったのだ。皮肉るなど直情型の葵にしては珍しいことだが、それだけ昨日のあれは腹に据えかねているのだ。
まあ、その後浩之としては挽回以上にご褒美があったわけなので葵が気にしているほど気にはしていないが、葵の目から見ても綾香はやりすぎだった。自分で理由を作っておいてその理由でKOは、さすがに酷すぎると思ったのだ。
しかし、そんな葵の心の機微を、理解しているだろうに無視すると、綾香は大きく首を振った。
「もう私が起きたときにはいなかったのよ。ご飯を準備してる子に聞いたら、日があがる前に、逃げるように合宿所を出ていったらしいわ」
そんな朝早くから起きている人がいたのかというのも気になるが、葵は首をかしげる。
「早めに起きたので、自主トレにランニングでもしているんじゃないですか?」
最近の浩之は、何かに追われるように練習をしている。一人早く起きたのならば、その時間を練習に当てようとするのは、今の浩之であれば当然行き着く行動だと思うのだ。
「違うわね……きっと女ね」
はあ、と葵は気のない返事しかできなかった。一体どこをどうやったらその考えに行き着くのだろうか、少なくと朝早く起きたので自主トレをしていましたという方が、何万倍もまともな推論だと思うのだが。
……綾香さんも合宿の三日目で疲れているんでしょうか?
いや、それは疲労はあるだろうが、何か変なことを口走るような疲弊はしていないだろう。綾香がそんな状態になるまで練習をしたというのなら、それに付き合った葵はともかく、浩之の方は廃人と化しているはずだ。
「それはあれですか、センパイがこんな済んでいる場所から遠く離れた場所で、女性と待ち合わせを、しかも日も昇る前のような時間にしていた、ということですか? さすがにないと思いますよ」
というか、どこをどうこねくり回したらそう思うのかさっぱりわからない。
だが、あきれる葵を前にしても、綾香はまったく揺れた様子がなかった。いつも自信に溢れている、それは無駄ではなく実績がともなうからこその自信だが、綾香だが、今回に関して言えば、葵も単純に盲信、というわけにもいかない。
「わかってないわね、葵は」
綾香は、ちっちと指を振ると、確信を持って言う。
「合宿先でたまたま出会った女性と親密になって時間の取れそうな早朝に約束する……普通の男ならともかく、浩之に限って言えば、ありえないことじゃないわ」
「……確かに」
何をとち狂ったのか、葵は綾香のいうことにも一理あると感じてしまっていた。
いや、実際、浩之は計り知れないのだ。特に女性関係はどんな非常識なことが起こっても葵は驚かない。いや驚きはするが、納得してしまうだろう、あのセンパイだから、と。それは、ここまで懐に入られてしまった自分のこともあるし、ちょっと見ない間に親密になっていたランのことも気になるし、何より綾香だって人のことは言えないのだ。
あの浩之であれば、合宿で一人行動している間に女性と知り合うことも、その女性と親密になることも、会いたいと言われれば都合をつけて会いに行くことも、やってしまうだろう。
恐ろしいことに、多少は違いがありこそすれ、合宿先で女性と親密になった、というのには事実が含まれているということだ。それは冗談と笑っていられる内容ではない。
「で、でも、だからって逃げたと言わなくても……その前に、確信があるわけでもないですし」
「嫌な、予感がするのよ。あの浩之よ? 警戒してし過ぎってことはないわ」
「……」
実際否定できないので、葵は言葉が出なかった。
まして、申し合わせたわけではないが、浩之は羽民と会って、話をしているのだから、綾香の嫌な予感というのも間違っていないのが怖い。女の勘というが、当てられているというよりは疑われているわけで、これは浩之の日頃の行いのせいのような気もするが。
まあ、そんな笑えるのか笑えないのかわからない一悶着の後、葵と綾香は浩之を捜しに二手にわかれて合宿所を出たのだ。
後から思えば、いや今現在ですら一体何をしているのだろう、と葵は頭の端では思っているのだが、葵は葵で、浩之のこととなると見境がなくなる部分があり、現在はそちらの方が勝っていた。
朝食までには戻りたいんですが……センパイ、どこに言ったのかなあ?
頭の端では、本当に女性と会っているのでは、と疑いながらも、まさかそんなことはないだろうと希望を持っている葵は、現在はそこらの疑いや希望を置いておいて、ただ浩之を捜していた。
女性関係のことも気になるが、浩之の疲労の具合も気になるのだ。あそこまで疲弊した次の早朝からまたハードな連数をすればさすがにオーバーワークだと葵ですら思う。浩之は少し休憩すべきなのだ。浩之に助けてもらったことのある葵は、浩之がしてくれたことの半分でも役に立ちたかった。
とにもかくにも、綾香の嫌な予感というものは的中していた。
そして、それは何も浩之に限定したことではない、というのに、現在のところ、神ではない綾香も気付いていなかったのだ。
続く