「ってことは藤田くんは携帯もってないんだな」
「ああ、今までなくて別段困ったことはなかったしな。格闘技をするようになって、よけいに必要なくなった感じがするな」
何せ生活のほぼ全てが練習に費やされていると言っていいのだ。身体を壊さない限り、練習のスケジュールは変わることがなく、当然えらく頑丈にできている浩之の身体はその厳しい練習に根をあげることもなく、いつも通り決まった練習を、練習の量や質は増えているがスケジュール的にはすでに安定している、しており、いちいち連絡を取ったりする必要がない。
「まあ、家に帰らない日はないから、留守番電話にでも入れてくれれば連絡は取れるしな」
何より、よほどせっぱつまった用事でもなければ、今の浩之は練習を優先している。それですら練習時間が足りないのだ。携帯電話は便利な道具で、今のご時世、持っていない高校生の方が少ないとはわかっているが、浩之は持つつもりは今のところなかった。
まあ、浩之が携帯電話を持たないのは、単純にお金がかかるという問題もある。正直食費や多少かかるようになった色々な経費でいっぱいいっぱいだ。一高校生がお金を手にする方法はない。エクストリームでいいところまで勝って賞金でも出れば別だが、必要なのは今だしバイトをするような時間的な余裕はもちろんない。
「羽民さんは、そういうわけにはいかないんだろうなあ」
「ん、まあな。仕事もあるし、連絡取れないってのは色々と問題だからね。練習中も、格好はよくないけど、ベルトにつけれるようにしてるよ」
ジャージにシャツという格好だが、腰には携帯電話用の小さなベルトポーチがついている。それ自体は機能重視で決してオシャレではないが、羽民がつけると機能美というか、どこか格好いいのだから、やはりオシャレというのは本人の資質にも大きく左右されるものだ。
羽民が何か決心したようにつばを飲み込んだのに、浩之は気付かなかった。
「……まあ、家電話でもいいさ。藤田くんの連絡先を聞いてもいいかい?」
「ん、ああ、いいけど、俺が羽民さんの連絡先をメモするもの持ってないんだよな」
「あたしが名刺とペン持ってるからいいよ」
携帯電話の小さなポーチから、魔法のように名刺とペンを羽民は取り出す。
「羽民さん、準備いいんだな」
浩之は素直に感心する。普通の格好であればともかく、こんな朝のランニングの途中でそこまで準備がいいのはさすがに驚きだったのだ。
しかし、浩之が素直に感心していても、羽民はちょっと苦笑気味だった。
「まあ、これでも一応プロレスラーだし社会人だからね。最低限、名刺とサインを書ける用意はしているんだよ」
まあ今までランニング中にサインねだられた回数なんて数えられるほどしかないけどね、と羽民は苦笑の理由を口にする。ローカルのプロレスラーの知名度というのは、やはりあまり高くないようだった。一部のコアなファン以外は、試合場以外で気付くことは少ないようだ。
羽民は名刺の裏に、思う以上に、いや、浩之の印象としてはむしろ羽民そのままに達筆で携帯電話の番号を書くと、浩之に渡す。
浩之も、別に何も考えずに家の電話番号を羽民に教える。羽民がどういう考えでわざわざ連絡先を交換したのか、浩之は意識していない。浩之としては羽民に電話番号を教えることに抵抗がない。悪い人間ではないと思えば、浩之としては十分だった。
浩之はやはり、どこまでいっても浩之だった。浩之がどれだけ女性に対して影響を持っているのか、まったくわかっていない。綾香の勘が働かなくとも、浩之があらゆる場所でそういう火だねをまいていると疑って間違いなさそうだった。
「こっちからも連絡するけど、藤田くんからも連絡してよ」
そう、どこかはにかみながら言う羽民を見ても、浩之は、やっぱり華のある人だなあ、と思うだけだったのだから、重傷である。実際、羽民のはにかむ表情は、それだけで男を、いや男女関係なく虜にしてしまいそうな華がある。浩之だって、見とれていたのだから、その威力は推して知るべしだ。
「と言っても、羽民さんも忙しそうだし、俺もこの合宿が終わったら、住み込みで練習、彩子さんがいたろ、あの実家の道場でずっと格闘技漬けになるから、連絡できないかもしれないんだよな」
それでも合宿から帰ったら一度必ず電話すると浩之が約束すると、羽民は嬉しそうに笑った。そこで家にいなくとも電話ぐらいできるだろう、と羽民が粘らなかったのは、社会人としては非常に正しい姿であるが、押しとしては弱かったのかもしれない。
羽民は、時計を気にした。浩之とまだ話をしたいのはやまやまなのだが、羽民も遊んでいるわけではない。むしろ皆をまとめながら練習をせねばならないのだから、こうやって浩之と話をしている余裕がないのは、むしろ羽民の方なのかもしれない。
「武原の実家か。あたしとしても、ちょっとばかり興味があるな。また時間があれば、もっと詳しく聞きたいんだけどね、まだこれから練習も雑用も残ってるからね」
「ああ、俺もそろそろ朝食の時間かな。てか腹減った」
お腹が減ってコンビニに買い物がてらの軽いジョギングのつもりが、どうしてかしっかりとしたランニングになってしまい、結局食べていないのだ。意識すると、思い出したようにベストタイミングで浩之の腹が鳴る。
羽民はふふっ、と笑う。お上品、などとはまったく違うが、羽民の笑顔には、やはり力がある。
「じゃあ、ここまでだね。藤田くんと話すのは気分転換になって楽しかったよ」
「こんなのでよかったらまた話し相手ぐらいにはなるぜ。いやまあエクストリーム終わるまで時間取れない可能性が高いけどな」
「ま、それを言うとあたしも忙しくなる一方だろうけどね」
名残惜しそうに、しかしすっきりとした顔で、羽民は手をあげた。
「じゃあね、藤田くん。楽しかったよ。またな」
「ああ、また」
浩之も手をあげて、羽民に応える。羽民は、それに笑顔を保って、あっさりと背を向けて走り出した。浩之はしばらく走り去る羽民の背中を見ていたが、自分も合宿所の方に向かって走り出した。
そう、羽民との会話は、まあ楽しいと言えた。
そして、それ以上に、羽民の言葉は、意図せず浩之に大きな傷をつけた。それで羽民を恨むのはまったくの筋違いであり、浩之にしてみれば、羽民に対して恨みに思うどころか、それを考えすらしなかった。
だが、効いたのは、事実。
自分が、どうしてエクストリームに出るのか。それは、浩之にとって、弱点とも言える点だったのだから。
続く