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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(190)

 

 何かを明確に予測したのでも予想したのでもない、ただとっさの判断だった。

 こちらに伸びてくるカレンの手に跳ね飛ばされるように、浩之は後ろに飛んでいた。浩之のフィジカルな強み、瞬発力をさらに過酷な訓練で鍛えられた身体は、まるで大型トラックに跳ねられたかのように浩之の身体を遠くに飛ばす。

 注目はすでに外れていたが、何があったのかと先ほどの野次馬が浩之の方を見る。もし、野次馬があのまま浩之達に注目していれば、浩之があり得ない距離で跳躍したのを目撃したことだろう。

 カレンに何かをされた、というわけではない。カレンがただ手を伸ばした瞬間に、浩之は表現できない恐怖を覚えたのだ。とっさに後ろに飛んだのは、日頃の鍛錬の癖と、浩之自身の危機管理能力の結果だった。

「ワォ、素晴らしいジャンプデス!」

 浩之のカレンは無邪気に喜んでいる。陸上の幅跳びの選手であろうとも、この一瞬でここまで飛ぶことは不可能だろう。予備動作なしで一瞬でトップスピードを出せるのは、浩之の才能あればこそで、それを見て素直に喜ぶことは、驚くことと同じぐらい、普通の感覚からは外れていないかもしれない。

 しかし、どこが何、というまでもなく、カレンのそれが異常であることを、とっさに逃げた浩之には痛いほどよくわかっていた。それは、不機嫌な綾香を目の前にするほどの恐怖だった。けっこう頻繁にその機会に会っているような気もするのが恐ろしい。

 それが浩之の錯覚でないことは、綾香が証明していた。

 カレンが浩之に伸ばそうとしていた腕を、綾香が横から掴んでいた。まるで、浩之を守るように。もっと言えばおやつを取られそうになった子供のように。

「ちょっと、カレン」

「どうしまシタカ、アヤカ?」

「浩之は私が先約なんだら、手を出さないでよ」

 綾香の目がマジだった。浩之の所有権は綾香にあり、よってそれに手を出すカレンを敵と見なしたようだった。色々どころか全部おかしい。

「そう言わずに、ちょっと味見ぐらいいいじゃないデスカ!」

「いいわけないでしょ、あんたにそんなこと許したら、最後まで食っちゃうじゃない。どうしてもっていうのなら……」

 綾香の殺気がふくれあがっていく。せっかくどう終わるかわからない組み手が終わったというのに、綾香からケンカを売るとは思っていなかった葵はおろおろとしている。

 にこにこと笑うカレンの口元がニィ、と大きく開く。先ほどまでの親しみの持てる友好的な笑顔から、そこにただ口元が開いただけで、酷く凶悪なものへと変化する。

「別にアヤカが相手をしてくれるのナラ、それでもOKデス!」

 綾香とカレン、二人の凶相に、もう野次馬も集まらない。ただの一般人であっても、今の二人に近づくことの危険を察知した、というよりも強制的に理解させられるレベルだ。

 綾香はわかるのだ、綾香はそういう危険なものを最初から持っている。不機嫌な状態のアヤカにケンカでも売れば、殺されても文句は言えない。

 しかし、カレンはどう評すればいいのか。近い、というならば、あの格闘バカ、寺町を思い出す。確かに、戦っている様は、非常に楽しそうであった。

 だが、今のカレンは、それよりもよほど賢そうではあるが、それ以上に怖ろしさを浩之は感じていた。言葉だけでを言えば、綾香と同じかもしれないが、しかし、そういう類の恐怖ではない。綾香のそれがただ力を見て怖いと思うのならば。

 カレンのそれは、害をなす者としての、怖さ。

 しかし、実際、この二人がここで戦いを始めたとすれば、それこそ止める手立てがない。決してこんなところで戦ってはいけない二人であるが、始まれば、それだからこそ、誰にも止められないだろう。どこかの武原一家とかが来れば話は別かもしれないが。

「大会が近いってのに、こんなところで戦っていいの?」

 お前が言うな、と言われそうな台詞を綾香は言うが、誰がどう見ても挑発でしかない。穏便に済ませよう、という気持ちが皆無のようだった。

 浩之は、肌がぴりぴりするほどの二人のにらみ合いを見ながらも、思考は止まっていなかった。だから、よくわからない疑問があった。

 カレンは、確かに殺気を感じた浩之は飛び退きはしたが、ただ浩之に手を伸ばしただけだ。それを浩之が警戒するのはまだわかるが、それだけであれだけ綾香が激怒する意味がわからなかった。それとも、カレンにとって、または綾香にとって、カレンの行動は特別な意味でもあったのだろうか?

 浩之自身は考えもしていないことだが、もし浩之に他の女の子が色仕掛けでもすれば、綾香はこれぐらい激怒するのだが、今回は、そういうものではなかった。

「アヤカと戦えるのなら、エクストリームを辞退してもイイのデスガ……」

 ぴっと握られた腕をふりほどくと、カレンは大げさに肩をすくめた。

「食べ過ぎはヨクないデス。今日は引き下がることにシマス。まったく、美味しそうだったのに残念デス!」

 何を言っているのか、食欲以外のことに聞こえない口調でそう言うと、警戒するアヤカを余所に、カレンは葵の方を振り向く。

 え、私ですか? という気持ちが葵の顔にありありと浮かんでいたが、それを気にする様子はカレンにはまったくなかった。

「アオイ、あなたとは本気で戦ってみたいデス! またエクストリームで会いましょう!」

「え、あ、は、はい!」

 これだけを聞けば、非常に健康的な会話であるのだが、しかし、綾香の視線はまったく弱まっていない。カレンに対する警戒を、一つも解除していなかった。

 綾香の行いが全て意味があるわけではない、が、綾香がそれだけ警戒する相手が、見たままの友好的な人間なわけがない。

 浩之も、自分の勘と、綾香の態度で、カレンに対して警戒を強めようとしたが、そんなことはまったくおかまいなしに、カレンは浩之にも近づいて来た。

「ヒロユキとは戦う機会は持てそうにないデスガ、機会があったら手合わせお願いシマス!」

「あ、ああ、俺じゃあ相手にならないと思うけどな」

「またまたぁ」

 また、カレンはどこからどう見ても日本人にしか聞こえない発音で手を振る。

「私の目はごまかせまセン!」

 カレンの目が、怪しく? いや、真っ直ぐに、浩之を見ながら、光る。

「こんな美味しそうな子が、弱いワケがありまセン!」

 性的……な意味なら、色々危険だけどよかったのになあ、とついつい豊かな胸にいってしまう視線を制御しながら、浩之はかなうことのない夢を思うのだった。

 

続く

 

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