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最強格闘王女伝説綾香

 

六章・休題(194)

 

 本人の希望に関わらず、綾香が坂下に与えたほどではないにしろ、池田に敗北という絶望を与えた寺町は、絶好調で部員達を相手にハンデ組み手をしている……わけではなかった。

 まわりからは格闘バカとしか思われていない寺町だが、寺町は寺町なりの悩みがあるのだ。

 例えば、両手を封じたぐらいで部員達を倒せなくなるとか、池田相手には片手では厳しいとか、そういう類の、結局格闘バカなのではないか、という悩みだ。

 昔から、寺町には自覚があった。それは自分が格闘バカであることもそうだ。

 頭のでき自体はそれなり、少なくとも初鹿が姉であると言っておかしくないぐらいだが、それを有効活用しているか、と言われると微妙ではある。微妙ではあるが、頭の回転よりも重要なことを、寺町は間違わない。

 自分にとって重要なこと。それは、強いことだ。

 だから、寺町は自覚している。自分がいかに弱いかということを。

 腕を守りにすら使わず、身体を大きく左右にゆらし、相手を翻弄する姿は、両腕を封じているハンデをまったく思わせないし、寺町本人の表情はいつも通りの楽しそうな顔であったので、誰も寺町が苦々しく思っているとなどとは思わないだろう。

 いや、もちろん嘘をついているわけではないし、寺町本人そう思っているわけではない。頭のできは悪くないが、他人の目というものにまったく気にしない寺町にとって、他人からどう思われているのかなどまったく問題ではないので、どちらでも問題はないのだが。

 少なくとも、寺町にはこれは楽しいことだった。例えハンデの結果とは言え、自分がなかなかどうにかできない相手というのは、寺町にとっては希望を満たすものだ。

 寺町にとって、練習は楽しいことだった。練習自体が楽しいのではない。強くなることが、重要なことと言っておいて、実際は楽しいことではない。正確には目的とする楽しいことではない。

 両腕が使えなくとも、空手部員のほとんどの相手に勝てるだけの自信、というよりも自覚が寺町にはあった。いや、そうでなくてはいけないのだ。やらないといけないという意味で言えば、坂下以外の相手、つまり今空手部で組み手をしている全ての相手に両腕を封じても勝てなくてはいけない。

 だが、実際はそう簡単にはいかない。寺町から見ても、池田相手では両腕を封じては勝てるとは思えないし、片手を封じた状態では、結局池田に勝つことはできなかった。一分の短い間に、片手を封じてなどという制限があろうと、寺町にとっては関係ない。たったそれだけのハンデで勝てないのでは、さらに先に進めないのだ。

 戦っている間、まあ今回は組み手だが、寺町は色々と考えるし、色々と考えない。意識して作戦を練ることもあるし、それ以上に瞬間瞬間の思いつきと反射に従って戦いもする。

 両腕を封じて組み手を行うのならば、その思考と反射を余計に行わなければならない。相手に拳を自由に使わせれば寺町だってかなり厳しいからこそ、キックが届く遠い距離と、拳すら意味のなくなる至近距離で膝を狙うしか手がない。しかも、キックと言っても寺町のローキックは他の打撃と比べてまだまだだ。北条鬼一のまだ短い、そして血反吐を吐くような恐ろしい鍛錬でましになっているとは言え、寺町にとってはまだまだ信頼に足る打撃ではない。と言ってもそんなローキックでも部員達を一撃で沈めるほどの打撃ではあるのだが。

 ただ打撃を連打しただけでは、いくら実力に差があれど、勝てるものではない。寺町との強さは大きく差があるとしても、皆寺町や、何より坂下に鍛えられているのだ。

 寺町がやらなければならないことは、相手の動きを自分の動きで誘導し、相手が反撃も防御もできない状態に持っていってから仕留める。言葉で言えばこれだけなのに、実行するとなるとどれほどの難易度なのか。

 実際この組み手でも、三分の一程度しか勝っていない。いや、その状態で一度も負けずに三分の一も一本に類する寸止めをしている寺町は、やはり常軌を逸している。

 しかし、それでも足りないのだ。

 ただただ、強い者と戦いたい寺町には、これでもまったく足りない。北条鬼一という化け物に指導を受ければ余計に思う。この化け物と戦うには、まだまだまったく強さが足らないと。

 だから、重要なのは強いこと。望むのは強い者と戦うこと。

 池田や、それ以外も含め、他人にどれほどの挫折と絶望を与えても、寺町には関係ない。この世界全てを敵にまわしても、強い者と戦うことができるのならば、寺町は喜んで世界を敵にまわす。だろう、などという曖昧なものではなく、それは間違いないことだ。

 鉢尾には悪いが、その思考の中に、鉢尾が入ることなど、当然ない。いや、寺町は悪いとすら思っていない。部活を作る際に部員になってもらったのもあるし、いつも世話をしてもらっているので感謝はそれなりにしているが、それとこれとはまったく関係ない話だ。まあ、鉢尾は悲しみこそするだろうが、それはそれで本望かもしれないが。

 寺町の考えることは、実に単純だ。これは物事が単純なのでも、寺町の思考が単純なのでもなく、寺町自身が自覚的に単純に考えていることだ。そして単純に考えることで寺町は本質を突く。

 強くなれば、より強い相手と戦える。

 無謀であることは、寺町にとっては害悪ではない。勝てない相手に向かうことを、寺町は端にも躊躇などしない。しかし、弱ければ、相手の強さを存分に楽しめないかもしれない。それは、寺町にとって、実に惜しい。それこそが寺町にとっては最もな害悪とすら言える。

 だから、こんな状態で苦戦していることは、寺町にとって本意ではない。まったく本意ではない。それならば、こんな組み手などやめて横で練習をしている浩之を襲った方がいいのでは、と考えるほどに本意ではない。

 それをしないのは、良識ではなく、本質を理解しているからこその、優先順位。強くなることは、何よりも優先される。少なくとも、全ての相手と対等に戦えるだけの強さが手に入るまで、寺町は成長を優先させる。

 とりあえずは、『鬼の拳』北条鬼一と、対等に戦えるまでは、戦いを楽しむよりも、練習を優先させる。目先の欲求と、より高い欲求、優先させるべきは、後者だ。寺町は、我慢が効く男だ。

 日本、下手をすれば世界の格闘家が目指すと言っても過言ではない北条鬼一と同じ実力を、とりあえず、と思うあたりは、寺町は、誰よりも大物なのかもしれない。いや、ここにいる者全てが、寺町のことを格闘バカと思うと同じぐらいに、大物であることは理解しているだろう。

 寺町は我慢の効く男だ。ああ、それにしたって、目の前に美味しそうな、今の自分でも十分に味わえるほどの相手がいるのに、指をくわえて見ているだけしかできないのは、苦痛だった。

 結局、寺町にとって、絶好調でも本意でもないのは、戦えないこと、それだけなのだ。

 

続く

 

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