作品選択に戻る

痛かった一日・五日目

 

 カランカラン

 扉をあけると、いつも通り鐘の乾いた音がした。

「いらっしゃい、好恵ちゃん」

「こんにちは、彰さん」

 私は彰さんの前のカウンターに座った。

 今日は土曜日で半日だったので、私は学校が終ると急いで『エコーズ』に来た。

 昨日、彰さんと約束したこともあったが、正直私はただ彰さんと話がしたかった。

「今日は学校半日だったんだね」

「ええ、学校が終ってすぐ来たのよ」

「そんなに急がなくてもお店はなくならないって」

 彰さんはそう言って笑った。

 でも、私にはまちどうしかったのだ。こうやって彰さんに笑いかけてもらうことが。

「でも、私と話をしていても仕事は大丈夫なの?」

「ん、まあ、暇だからね」

 そういえば今日もお客さんはいない。

「ここって満員になることってあるんですか?」

「うーん、常連の人はいるけど、満員になったのは見たことないなあ」

「もうかってるんですか?」

「さあ? おじさんもこの店趣味でやってるみたいだし」

 なるほど、確かに趣味なら納得がいかないでもない。

「だから、別に気にしなくていいよ」

「ええ、そうします」

 私はそれからまた楽しい時間が始まるものとばかり思っていた。私の邪魔をするのは、 時間だけだと思っていた。

 カランカラン

「いらっしゃ……」

 彰さんの言葉がそこで止まる。不思議に思って彰さんを見ると、彰さんの表情は凍りついていた。

「こんにちは、彰君」

「み、美咲さん……こんにちは」

 私は入り口の方に顔を向けた。

 そこには、一人の女性がいた。

 歳のころは20前後か、髪はセミロングよりも少し短めだろうか、やさしそうに微笑んだ瞳、雰囲気から そこらの女性とは違う、気品というものが感じられる。女の私でもすごいと思う美人だ。

 そのわりに、その女性からはいやらしさが感じられない。清楚で、やわらかだ。

「今日はお店によるつもりはなかったんだけど、近くまで来たからよってみたの。ごめんなさい、 すぐ帰るからお水はいいわ」

「かまいませんよ、美咲さん」

 彰さんの表情がおかしい。まるで、初めて会ったときのような……。

「あら?」

 その女性は私の方を見てニコリと笑った。

「彰くんのお友達?」

「え、は、はい。坂下といいます」

 私は、その女性の大人びた雰囲気に飲まれるようにそう口に出した。

「そうなの。私は美咲と言うの。彰くんの先輩にあたるの」

「そうなんですか」

 美咲という女性は、まるで昔からの旧知の仲のように私に微笑みかけた。

「制服から見ると、あの丘の上の高校生?」

「はい、2年です」

「へえ、若いのねえ」

 その人はとてもやさしい笑顔をする女性だった。

「もしかして、彰君の彼女?」

「え?」

 彰さんの……何?

「……」

「あ、ちがったの? ごめんなさい、すぐこういうことを口に出すようになっちゃって、私も 歳なのかなあ」

 私が固まってしまったので、美咲という人はそう言ってその場を冗談にしたようだ。

 そして、彰さんは何も話さなかった。

「彰君?」

「え、何ですか、美咲さん」

「今さっきから何も話さないけど、私悪いところに来た?」

「い、いえ!」

 彰さんはあせって弁護した。

「そんなことないですって。美咲さんが来るならいつでも大歓迎ですよ」

「と言っても私は今日はすぐかえっちゃうけどね」

 私は思わず微笑んでしまった。それは彰さんも同じようだ。

 凍った彰さんの表情を、一言で解いてしまう、それはまるで魔法使いだった。

「じゃあ、私はお邪魔みたいだから今日は帰るわ」

「だから別に……」

 美咲さんは、クスッと笑った。

「冗談よ。今から冬弥君に買い物付き合ってもらうの」

「……そう……なんですか」

「ええ、女の子の買い物は荷物が増えるから。また彰君にも頼むかもしれないから、そのときはよろしくね」

「ええ、そのときは手伝います」

 彰さんは、そう即答した。

「じゃあ、またね。彰君、坂下さん」

「はい、また、美咲さん」

「さようなら」

 カランカラン

 美咲さんは、お店を出ていった。

「……」

「……」

 二人の間に、沈黙が流れる。

 私は、何かを言わなければならなかった。そう思って、決心もした。

 でも、言葉にだしたいものは、聞いてしまえば、それで何もかも終ってしまうのではないのかと 思えることだった。

 あの美咲さんという人が、彰さんの好きな人なのかと。

「あの……彰さん」

「……何だい、好恵ちゃん」

 聞くべきではないと思った、絶対に。

 でも、それに反するように、私の心の中で聞きたい衝動が生まれる。

「……」

 結果、私は無言になるしかなかった。

「そうだよ」

 でも、彰さんは私の聞きたかったことを、いとも簡単に理解した。

「あの人が、僕の好きな人さ。そして、片思いの人」

 私は、ガタッと席を立った。

「……ごめんなさい、彰さん。私、今日は帰ります」

「……うん」

 私は、彰さんと目を合わせないように店を出た。

 

 それを後悔したのは、家に帰ってからだった。

 あのとき、何故私は店から出たのだろう。あのとき、はじめと同じように彰さんの心の内を 少しでも聞いてあげれば、彰さんはどれだけ救われたろう。

 話すことで少しは心がはれるのは、彰さんと話していて理解していたのに、私はそれができなかった。

 私は、制服を脱ぎ捨てると鏡の前に立った。

 この鏡は、空手において自分の技の研究のために取りつけたもので、全身が写せる。

 今まで、そんなことなんて思っていなかった。

 この筋肉のついた太い脚も腕も、私にとっては誇りのようなものだった。いたるところにある 擦り傷やあざは、私にとっては当然のものだった。

 運動することによって体の無駄な贅肉はそぎ取られ、胸も大きくはない。

 でも、そんなことは気にする必要すらなかった。

 美咲さんを私は思い出す。

 女性らしいという言葉は私は嫌いだったけど、美咲さんはその言葉通りの人だった。

 美人で、女性らしくて、おしとやかで。

 私とは、まったく正反対の女性。

 圧倒的だった。女性としての魅力は、美咲さんの方が圧倒的だった。

 むしろ、それで気付かされたと言っていい。

 自分が美人じゃないとかなんて、私には関係のない話のはずだ。

 それが、くやしい。関係ないはずなのに、その差がくやしかった。

 自分とでは、まったくつりあわないではないか。

 

 気付かされてしまったのだ。

 彰さんに対する、私の気持ちを。

 

 今まで、それに気付かなかった自分もどうかしていたのかもしれない。

 会うのが待ち遠しい、遠慮したいけどそばにいたい、ただ話してしるだけで楽しい。

 それを、私は恋という言葉以外で説明できない。

 

 ……つまり。

 初恋は、痛かった一日から始まったのだ。

 ……そして今も痛いままで。

 

 彰さんが恋しかった。彰さんといつも一緒にいたかった。彰さんと……。

 彰さんの、全てを今私は欲していた。

 そして、それが可能な女性に、私は嫉妬を覚えるはずだった。

 ……嫉妬は、できなかった。

 ただただ自分がみじめだった。

 あのやさしそうな笑顔は、私を苦しめるだけだった。

 ほんの少しの間話しただけだったけど、美咲さんのやさしさは私にも伝わっていた。

 こんな気持ちで、彰さんはいるのだろうか。

 美咲さんを憎めないまま、ただ彼女が他の男に恋をする姿を見ているしかないのだろうか。

 憎めば、あきらめることもできたろうに。

 でも、彼女を憎めば、自分の醜悪さがにじみ出るだけ。

 そんな恋を、彰さんはしているのだろうか。

 

 彰さんを救いたいのに。

 私は、無力だった。

 この鍛え上げた腕は、それをどうすることもできなかった。

 

 ……そんなはずない。

 彰さんは、私を立ち直らせてくれた。

 だから私は。

 

「……ありがとう、この一言だけでも、心がいくらかは軽くなったよ」

 

 ほんとに?

 心は、軽くなったのかな?

 でも、私が彰さんに立ち直らせてもらったように、彰さんを私が立ち直らせることができたら。

 私に、その力があったら。

 

 私が、その力を使えるなら。

 

 強くなろう、彰さんを包めるほどに。

 私のこの恋が、片思いに終っても。

 私は、彰さんの力になりたい。

 

 私は、決心した。

 

 続く

 

前のページに戻る

次のページに進む