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痛かった一日・六日目(前半)

 

 カランカラン

 もう聞き慣れた鐘の音を聞きながら、私は『エコーズ』に入った。

 いつも通りお客はおらず、マスターが暇そうにカウンターに座っていた。

「あの、マスター……彰さん、今日来ますか?」

 マスターは、彰さんがしばらく喫茶店を休むと教えてくれた。

 多分、美咲さんと会うのが嫌だから。

 ここで待っている以外に、私が彰さんと会うことはできない。

 でも、私はここで指をくわえて時間がたつのを待つつもりはまったくなかった。

「マスター、彰さんの家の場所、教えてくれませんか?」

 確かマスターは彰さんの叔父にあたるはずだ。彰さんの家の場所を知っていてもおかしくはない。

 しかし、マスターは首を横にふった。

 いくら従業員のとは言え、お店に関係ある者のことは教えられないのだという。芸能人がよく顔を 出すこの喫茶店では当然のことなのかもしれない。

 しかし、もちろん私はあきらめる気はなかった。

「お願いします、マスター。どうしても、彰さんに会いたいんです」

「……」

 マスターはしばらく無言だったが、仕方ないとため息をついてメモ帳に地図を書いてくれる。

 今回だけ、特別だからね、とマスターは念をおした。

「ありがとうございます、マスター!」

 私は深々と頭を下げた。

 じゃあ、がんばってきなさい、とマスターは意味ありげな事を言って仕事に戻った。とは言っても ただお客が来るのを待つだけだが。

 私はそのメモを手に喫茶店を飛び出した。

 早く、一秒でも早く彰さんに会わないと。

 理由があるわけではなかった。でも、時間がたてばたつほど、私と彰さんの距離が遠くなって いく気がしていた。

 走るたびに完治していないみぞおちの傷が痛む。でも、私はそんなことに気を取られてる暇なんてない。

 ただ、早く彰さんに会いたかった。

 

 息を切らせながら私は地図を見た。

 ここだ。

 小奇麗なアパートの一室。ここが彰さんの部屋だ。

 私は、大きく息を吸い込んだ。

 でも、彰さんに会って私は何をするつもりなの?

 愛の告白?

 まさか、私は、彰さんをただ助けたかった。

 決心しているのに、私の心の中の弱い部分が私に耳打ちする。

 でも、どうやって彰さんを助けるの?

 話を聞いてあげるだけ?

 なぐさめてあげるだけ?

 そんなことで、悲しみから逃げられると思う?

 私の中の弱い心はそうやって私の足をとめようとする。

 どうやってなんて、考えてない。でも、彰さんは今一人でいちゃだめだ。

 だったら?

 だったら、あなたは一緒にいてあげるだけ?

 それとも、体で慰めるの?

 そんな!

 私は自分の心に赤面した。

 望んでるんでしょ、あなたは。彰さんに、抱かれることを。

 今なら、彰さんが傷心で苦しんでいる今なら、それぐらいのことはできるかもよ。

 違う、私はそんなことしない!

 

 だって、私は……

 

 しないじゃないの、できないのよ。あなたは、自分に自信がないから。

 私は、自分の心の言葉を無視してチャイムをならした。

 ピンポーン

 波立つ私の心とは裏腹に、チャイムの音は間が抜けていた。

 ほんとは、彰さんに抱いてもらいたいんでしょ?

 ほんとは、今の間に彰さんの心をうばいたいんでしょ?

 

 違う!

 

 私は、心に叫んだ。多分、それは図星だったと思う。でも……。

 

 私は、彰さんに痛みを和らげてもらった、そのお礼がしたいの。

 私の気持ちなんて、二の次でいい。

 彰さんが立ち直ってからでもいい。

 

 嘘つき

 

 嘘つきでも、私は、彰さんを助けたい。

 私は弱い心を力づくでねじ伏せようとした。空手の精神修行なんて、 これっぽっちも役にはたたなかったけど。

 

 彰さんは出てこない。

 ピンポーン

 もう一度、チャイムをならす。

 ……

 しばらく時間がたったが、やはり反応がない。

 彰さんは、家にいないのだろうか?

 でも、ここで彰さんがいなかったら、私は彰さんをどうやって探せばいいの?

 ピンポーン

 私は祈る気持ちでもう一度チャイムをならした。

「……彰さん、いないんですか。好恵です。いたら、あけてください」

 ……

 やはり、返事はなかった。

 でも、私は部屋の中から音がしたのを確かに聞いた。

「彰さん、いるんでしょ?」

 ……

 返事はなかったが、私は確信した。彰さんは部屋の中にいる。

「彰さん」

 ……。

 返事はない。おそらく、私と会うつもりなんてないのだろう。

「彰さん、開けて」

 ……。

 やはり中からの反応はなかった。

 私は、一瞬あきらめようかとも思った。

 彰さんは、今誰にも会いたくないのだ。それを、私が無理やりどうにかするなんて……。

 いや、違う。私は、彰さんの迷惑になったって、彰さんを救いたい。

「彰さん、開けてくれるまで外で待ってるから、私に会えるようになったら開けて」

 それだけ言うと、私は扉の横の壁にもたれかかって座った。足をかかえ、彰さんが開けてくれるまで ずっと待つつもりだった。

 ただ静かな時間が流れていった。

 ときおり、アパートの住人らしき人が私の横を通りすぎていく。目は合わせないようにしているが 興味深々の目で見られる。

 私は、自分の姿に少し笑ってしまった。もちろん自虐の意味でだ。

 ラフな白いシャツに、ひざから下を切り落としたジーンズをはいた、まるで男のようなかわいくない 女が、沈んだ表情でひざをかかえてアパートの扉の前に座っているのだ。

 こっけいな私。

 こういうのは、かわいい女の子がやってはじめてさまになるものだ。私なんかがやったって、 面白くないドラマにもならない。

 でも、それでもよかった。

 いつか、きっといつか彰さんは扉を開けてくれるから。

 私は、それまで待っていればいいだけなんだから。

 それまで、私はここに座っていよう。

 

 僕は誰とも会いたくなかった。

 この気持ちを、誰と共有できようか?

 ただ、僕は暗い部屋の中でじっとしていた。何もする気になれなかった。

 けっこう、吹っ切れた気持ちでいた。

 あのとき、僕は多分長い間立ち直れないと思っていたのに。

 好恵ちゃんと会って、ただ話をしてるだけなのに、僕は半分立ち直っていた。

 かっこうはまるで男の子のように見えるけれど、好恵ちゃんは話してみると実にウブな女の子だった。

 僕には、それが新鮮に思えたのだろうか?

 でも、好恵ちゃんと話をしている間、僕の心は少しづつでもはれていた。

 

 でも、そんなの、一時的に波がひいたにすぎなかったのに。

 

 美咲さんの顔を見ただけなのに、僕の中にあった気持ちはすぐに崩壊した。

 傷はかきむしられ、また、僕は美咲さんのことだけを思う日々に戻った。

 それはただ痛いだけの日々。

 だから、僕はその痛いだけの日々がすぎるのをただ待ち望むしかできなかった。

 ピンポーン

 そんなとき、玄関のチャイムがなった。

 僕は誰とも会う気はなかったので、それを無視した。

 ピンポーン

 しばらくすると、またチャイムがなった。

 誰かは知らないが、僕は出る気なんてなかった。

 ピンポーン

 3度目のチャイムがなる。

 無視だ。

「……彰さん、いないんですか。好恵です。いたら、あけてください」

 ガタッ

 僕は思わずイスから立ちあがってしまった。

 好恵ちゃん?

「彰さん、いるんでしょ?」

 それは確かに好恵ちゃんの声だった。

 でも、何で好恵ちゃんがこんなところに?

 それでも僕はただ立ちあがったまま途惑っていた。

「彰さん」

 好恵ちゃんはもう一度、僕の名前を呼んだ。

 僕は音を立てないようにしながらもう一度イスに座りなおした。

 何のことはない、僕は、今誰とも会いたくも話したくもない。

 好恵ちゃんには悪いが、無視させてもらうことにした。

「彰さん、開けて」

 僕は無視を続ける。

 好恵ちゃんが何の用でここに来たのかは知らないが、今は会う気が起こらなかった。

「彰さん、開けてくれるまで外で待ってるから、私に会えるようになったら開けて」

 もう、その言葉が終ると、好恵ちゃんは何も言わなくなった。

 ごめん、でも、出たくないんだ。

 好恵ちゃんには悪いが、しばらくすれば好恵ちゃんもあきらめるだろう。

 僕はまた机にひじをついて長い時間ただ痛みだけを感じていた。

 

 それから、どれぐらい時間がたったのだろうか?

 僕は、ずっと美咲さんのことで苦しんでいるはずだった。

 でも、どうしても好恵ちゃんのことが気になった。

 「開けてくれるまで外でまってるから」……か。

 チラッと時計を見ると、もう6時近い。好恵ちゃんが来たのが何時かは知らないが、 もう少なくとも3時間はたっているはずだ。

 まさか、もう待ってはいまい。

 悪いことをしたと思う、今度、僕が立ち直ってからあやまろう。

 いや、こんなひどい男には、もう会いに来てはくれないか。

 それは少しさびしいと思った。好恵ちゃんは、確かに僕をなぐさめてくれたから。

 チラッと時計を見る。さっきと変わらず6時前をさしている。

 まさかね……

 そう思ったが、どうしても好恵ちゃんの言葉が気になった。

 僕は、仕方なく立ちあがると、玄関に向かった。

 カシャッ

 軽い音をたてて鍵を開ける。

 そして、外を見た。そこには、一人の女の子が座っていた。

「……好恵ちゃん……」

 玄関の横、好恵ちゃんは、壁にもたれかかって、まるまって下を向いて座っていた。

 本当に待っていたのか、好恵ちゃんは。

 そう思うと、僕の心の中に、すごい罪悪感が生まれる。

 僕は、ずっと好恵ちゃんを待たしていたのだ。好恵ちゃんは、僕が開けると信じて、ずっと待っていて くれたのだ。

 それなのに、僕はただ自分が悲しいから彼女の心使いなんて一つも気にせずに自分のことばかり……。

「好恵ちゃん、ごめ……」

 好恵ちゃんは、僕の言葉に反応しなかった。

「……好恵ちゃん?」

 僕がかがんで覗きこむと、好恵ちゃんは小さな寝息を立てながら眠っていた。

「……」

 もう一度、僕の心がしめつけられる。何でかなんてわからなかったけど。

「好恵ちゃん……」

 僕は、好恵ちゃんを起こそうとして、かわいそうかなと思ってやはりやめた。

 僕は好恵ちゃんを抱きかかえて持ち上げる。

 好恵ちゃんの体は、見かけよりもずっと軽かった。空手をしているし、この上背なので、もっと 重いと思ったのだが、想像よりずっ華奢だった。

 好恵ちゃんは僕に抱きかかえられると、気持ちよさそうに僕に体をすりつけてくる。

 いくら春とは言え、今日は風も強く夕方ともなればけっこう寒い。好恵ちゃんの体は、少し 冷たくなっていた。

 急に、僕は好恵ちゃんがいとおしくなった。

 ずっと僕を待ちつづけてくれた彼女。

 ずっと僕をなぐさめてくれていた彼女。

「彰……さん」

「好恵ちゃん?」

 好恵ちゃんは何もなかったように僕にだきかかえられたまま眠っている。寝言のようだった。

 好恵ちゃん……君は……

 僕は、そんな好恵ちゃんを静かに僕の部屋に入れて、扉を閉めた。

 

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