銀色の処女(シルバーメイデン)
多くの不可解なことと、一つの罪悪感。
その苦痛に満ちた時間は、当然のように浩之にはゆっくりと感じられたが、それでも少しずつ 終わりに近づいていた。
もう、浩之は時計を見ていない。その苦痛を望んでいるわけではなかったが、罪悪感が時計を 見るという行動を制約しているからだ。
「お味はどうですか」
今日の夕食はチキンシチューだった。それに合わせているのか、ご飯ではなくパンも用意して あった。
「ああ、うまいぜ、さすがだな、セリオは」
浩之は、仮面のように顔に微笑みをはりつけたまま答えた。
当然ではあるが、シチューはおいしかった。あかりでさえここまでおいしいシチューを作れるか 疑問なほど美味しかった。でも、そのシチューの味など、浩之には分かっていない。
うまいと答えたのは、ほとんど機械的な返事であったにすぎない。ただし、苦痛をともなう機械的 な行動であったが。
ただ、うまいと嘘をつく、いや、確かに美味しいのだが、そう感じていない浩之にとってはその 言葉は嘘になる、ことも浩之の罪悪感の傷を広げるだけであった。
しかし、ここで味がわからないとか、まずいなどと答えるわけにもいかない。
浩之は、その全ての苦痛に関して、我慢しなければならないのだ、セリオが、『シルバー』から 解放されるまでは。
「ありがとうございます、浩之さん」
『シルバー』はうれしそうに浩之に笑いかけた。
人間に近い、というコンセプトで開発された感情プログラムである『シルバー』だが、この笑った 表情と言い、よくできていた。人間に近い、という言葉はあながち嘘ではなさそうだった。
しかし、浩之はやはり感じていた。それが、人ではないことを。『シルバー』が、決してセリオの ように友人になったりしないことを。
『シルバー』の表情が浩之には不快だった。
それがセリオの体で行われているとか、そういうのを除いても、おそらく『シルバー』の表情は 自分を不快にさせる、と浩之は感じていた。
人に近づくところか、それはできのいい作り物にさえ思えない。ただ、不快なだけ。
そんなしこりのようなものが、浩之の神経をすり減らしていた。
その不快さを紛らわすために、浩之はしたくもない会話を『シルバー』としていた。
「いっつも思うんだが、データはサテライトサービスでわかるとして、料理とかは何度か練習 しないとできないと思うんだが、何でセリオは大丈夫なんだ?」
「サテライトサービスから送られてくるデータは、何もレシピだけではありません。何度もシミュ レートさせて作った言わば「技術の」データも同時に送られてきています。だから、私はまるで 料理人のように包丁を使うことも、味も分からないのに調味料の量を調整できたりできるわけです」
「てことは、いちいち一つずつの知識にわざわざシミュレートしてデータを取ってあるのか?」
「はい、これだけはロボット本体に覚えさせるのは難しくて、マルチさんのような学習優先型なら、 自分でそのシミュレートを行うことで補っているようですけど、当然いきなり料理はできません」
「ふーん、金かけてんだな」
そして、今も研究のために大金をはたいているのだろう、それだけ売れ筋なのだ。
『シルバー』がどうして研究されているのかは分からないが。
食事を終え、『シルバー』は食器を片付け、まだキッチンに座ったままの浩之の前の席に腰を かける。
「どうしたんですか、浩之さん。今日はテレビは見ないのですか?」
「ああ、別に面白い番組もないしな」
お前から目を離すわけにはいかなかったから。テレビなんて、どうでもいいのだ。
「それじゃあ、お風呂わかしてきますね」
「いや、まだいい。とりあえずここにいてくれ」
「……はい、分かりました」
『シルバー』は首をかしげながらもそのまま浩之の目の前に座ったままじっと動かなかった。
ここだ、ここで、何とかセリオに戻さねば。
『シルバー』の顔をじっと見ている浩之に、『シルバー』は訊ねた。
「どうかしましたか、浩之さん」
「何でもないが、そこに座っているのは嫌か?」
「いえ、全然嫌ではありませんよ。浩之さんと一緒に座っているだけでも楽しいですから」
そう言って『シルバー』はにこにこしていた。
実に嬉しそうに。だから浩之はよけい苦しくなる。それが単なる作り物の、いや、それ以下の 感情だとしても、浩之は苦しむ。
「そういや、何で『シルバー』は1日に1、2時間だけの実験でいいんだ?」
「本当に試験的にやっているので、あまり長い時間するのはもし問題があった場合は私のプログラム にダメージがあるからだと思いますが、詳しいことは教えてもらっていないので」
『シルバー』は、何の疑問も持たず、少なくとも表面的には、に浩之の問いに答えた。
「今の所問題はあるのか?」
「私はないように思いますが、それを判断するのは研究所の方々なので、何とも言えません」
浩之は慎重に言葉を選んでいた。もしここでまた『シルバー』にごねられてはこまる。だから、 細心の注意を払って言葉を選び、ゆっくりとだが誘導していた。
早くセリオを取り戻す。それだけが今の浩之の願いだった。
「もう今日は2時間経ったかな?」
「そうですね、そろそろ感情プログラムの変更を行います」
「そうしてくれ。それが終ったらお風呂の用意頼むな」
「はい、分かりました」
『シルバー』は微笑んで答えた。浩之の胸は痛んだ、それが、『シルバー』の最後の笑顔にしようと 浩之自身がしているから。
『シルバー』は、目を閉じた。
浩之は、目を大きく見開いて、セリオの身体を見ていた。
長い一分であることは容易に想像がついた。だが、それを容易に耐え切れるかと言うと、そういう わけにはいかなかった。
もし、目をあけても『シルバー』のままだったらどうする。
セリオがもう消えてしまっていたら、どうする。
もう二度と動かなくなるかもしれない。
そんな、不確かで不安定な恐怖が、浩之を襲う。
しかし、浩之はその場から逃げ出すことも、目を背けることも、ましてやセリオを見捨てることも できなかったのだ。
その永遠に長い一分を、ただじっと待つだけ。
セリオが、目をあけるまで。
その無表情な顔を、浩之に見せるまで。
浩之は、そこでセリオを見ているしかないのだ。
セリオは、目を開けた。
セリオは。
「それでは、お風呂をわかしてきます」
セリオは無表情に浩之にそう言うと、お風呂場の方に向かおうと立ちあがった。
「セリオ」
「はい、何でしょうか、浩之さん」
機械的な口調。ちゃんとした日本語の抑揚や発音ではあるものの、感情というものは感じられ ない。
ふいに、メイドロボの特集で「メイドロボは声に表情がなくて恐い」という意見があったのを 思い出した。
そんなの、くそくらえだ。
セリオには、表情などなくてもいい。むしろあってはだめだ。
彼女は、俺や綾香やあかりの知っている、セリオなのだから。
「セリオ」
「はい、何でしょうか、浩之さん」
浩之の衝動に似た呼びかけに、セリオは律儀に答える。
「セリオ」
「はい」
「お前はセリオだよな」
「はい、私はセリオです。それが何か」
セリオの事務的でそっけない返事も、浩之にはただただ嬉しかった。
そこに、ちゃんとセリオがいる。その真実が、浩之にはたまらなく嬉しかったのだ。
長年生き別れた恋人と会っても、ここまで幸せに感じないだろう感動に浩之は包まれていた。
「ここにいてくれ、セリオ」
「はい、かまいませんが、お風呂の方はどういたしましょうか」
「後でいい、どうせシャワーを浴びるだけだっていいんだ」
「はい、分かりました」
浩之は、その言葉を聞く間もなく、席から立ちあがってセリオに近づいた。
「浩之さん、どうかしたのですか?」
「いや、何でもない、何でもないんだ」
浩之は首をふった。セリオには、おそらくこれを説明できないだろうと思ったから。
本当は、セリオに全部言ってしまいたかった。しかし、その時期かどうかが浩之にはわからな かった。もしかしたらそれが決定的なミスとなるかもしれなかったからだ。
「失礼ですが、何でもないことはないと思います」
抑揚はなかったが、その言い方に、浩之はバッとセリオの瞳を見る。
「浩之さん、何故泣いているのですか?」
「えっ?」
浩之は、自分のほほをさわった。
つめたい感触が、浩之の指先に伝わる。
涙だ。
涙だった。
おそらく、セリオのために流した涙だった。
しかし、浩之はそこまできてもなお、自分が涙を流したということにすぐには気付けないでいた。
「何か悲しいことがあったのですか?」
その言葉が、浩之に全て、と言っても、涙を流したことだけだが、それを理解させた。
悲しいことなんてなかった。こうしてセリオはもとに戻ってきた。悲しいことなんて起きなか った。全てうまくいくはずなんだ。
その言葉は、浩之の口からはもれてこなかった。
かわりに。
浩之は、セリオを抱きしめてした。
続く