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銀色の処女(シルバーメイデン)

31

 

「何か悲しいことがあったのですか?」

 その言葉は、ひきがねとなり、浩之を動かした。

 浩之は本当に、単なる、そして重要な衝動で、セリオを抱きしめていた。

 後のことも、先のことも少しも何も考えられなかった。ただ、セリオを求める。そこにセリオが いることをちゃんと意識したい、ただそれだけだった。

「浩之さん……」

 セリオは、嫌がることも、身をあずけることもしなかった、浩之にされるがままに、そこに立つ だけ。

 浩之には、セリオのその言葉は聞こえていたが、自分の名前が呼ばれたことには気付かなかった。 頭にあったのは、それがセリオの、『シルバー』ではなく、セリオの声だということだけ。

 そこに、ちゃんとセリオがいるということだけ。

 ちゃんと、その抑揚のない声で、その無表情な顔で。

 なのに、浩之には悲しかった。

 『シルバー』から、今セリオは解放されているはずなのに、それでも浩之は悲しい。不安などと いう不確かなものでなく、悲しい。

 胸の中をかきむしられているように、苦しい。

 だから、浩之はセリオを抱きしめていた。

「ぁ……」

 言葉が、出ない。セリオに話しかけようとするのに、それを激しい鼓動や、つまる胸が邪魔をする。 よけいに浩之はもがく。

 きつく、それなのにやさしく、浩之はセリオを抱きしめる。もう、どうにもならない、セリオを 抱きしめる以外、何もできない。

「浩之さん、どうかしたのですか?」

 セリオの声ははやり冷静で、だから同じように自分も冷静にならなくてはと思うが、できない。

 胸は熱くもないのに、激しく動いている。セリオを抱きしめているのに、体温は下がる。

「大丈夫ですか、浩之さん」

 セリオの口調が、気持ちあせっているのかもしれない。それはおそらく浩之の幻聴だろう、セリオ は、あせりなんかしない。

 大丈夫だから、心配かけさせてすまない、何でもないんだ。

 口をあけて、そう言わなくては。そうやって、セリオを安心させなくては。いや、セリオは別に あせってなんかいないから、安心させる必要なんかないのか。安心しなくてはいけないのは俺だな。

「……セ……リオ……」

 息さえつまる状態で、浩之は無理やりセリオの名前を呼んだ。

「はい、浩之さん」

 顔を浩之のさして広くもない胸に押しつけられた状態で、セリオはくぐもった声で答えた。

「……ハゥ……」

 浩之は、何とか続きを言おうとしたが、やはり、声にならなかった。

 しかし、このままセリオを抱きしめているだけでは、何も変わらない。だから、声が出ないのなら、 他の手を使ってでも、俺自身を落ちつけなくては。

 そうは思っても、浩之の身体はセリオを抱きしめた状態からピクリとも動かない。まるでその 形のまま石膏で固められてしまったように。

 どうしてかなんて、知っている。俺は、もうセリオを放したくないのだ。

 このまま、セリオを抱きしめていたいのだ。

 そうすれば、セリオはセリオのままでいられるかもしれないのだから。

 だったら、このままずっとセリオを抱きしめていればいいじゃないか。腕が力をなくすまで、 足がつかれて立てなくなるまで、俺の、心が耐えれるまで。

 ずっと、このまま。

「浩之さん」

「……セリオ」

 今度はちゃんと口にできた。声のひっかかりも、だいぶやわらいでいる。

 でも、このままセリオを抱きしめていよう。それが、俺が望んでいることだから。それが、セリオ が助かる一番の方法だと思って。

 そうすれば、俺は安心できる。

「どうして、泣くんですか?」

 そう、俺は泣いている。

 このままセリオが消えるという苦しさが、俺に涙を流させる。きっと単なる間違いだろうに、それが 苦しくて俺は泣く。

 どうしても、その涙は止めれない。

 

 何故なら、もうセリオは俺にとってかけがえのない存在だから。

 セリオが消えることが、今の俺には一番苦しいから。

 セリオが、好きだから。

 

 それは、どうでもよくはないが、どこにでもあるような錯覚だった。

 激しく感情を揺さぶられたときに、その昂ぶりを、恋愛感情と見誤る。そうやって一生をともに する者を選ぶことも多い。

 今目の前で存在がなくなろうとする、目の前で命を消そうとする者を見たときの、 人の感情の高ぶりを、恋愛感情と錯覚することは、少しも不思議なことではなかった。

 もとからセリオが大切なことには変わりはない。ただ、その大切さという溝が、浩之の心の中で 今深く掘られたにすぎない。

 しかし、浩之はその感情に自分から身をまかせるしかなかった。

 これも錯覚であるが、自分が懸命になればなるほど、彼女を助けれるのではという思いが浩之を 捕らえたから、浩之は、懸命になるしかないのだ。

 浩之は、セリオが消えることを恐れたがゆえに、それのために自分の中のその錯覚をあえて 肯定し、セリオを少なくとも今の瞬間愛した。

 そして、しょせんは恋愛感情など、その錯覚でできているわけではないなどとは、誰も口に できはしないのだ。

 浩之は、何とか声の出るようになった喉で、多分生まれて初めてその、少なくとも浩之に関わる 多くの人にとってもとても重要な言葉を口にした。

「セリオ、愛してる」

「……」

 セリオは、この瞬間、浩之の前では初めて完全に言いよどんだ。はっきりと、言いよどんだことが 分かるぐらいに。

 ただ、否定、という意味には浩之は少しも取らなかった。

 だから、浩之は初めてセリオが驚くのを見たのだ。それぐらいしか、浩之はセリオがいいよどむ 理由を思いつかなかったのだ。

「……もったいないお言葉です、浩之さん」

 セリオは、かろうじてそう言った。いかにも取り繕った、その場しのぎの言葉だった。

 どう答えていいのか分からないのだろう。セリオがいくら有能だとは言え、それは本当に 未体験だったろうから。

 でも、浩之にも一歩も余裕はなかった。

「俺は、セリオが好きだ。だからセリオ、お前を、抱きたい」

「……」

 浩之のあまりにも唐突な言葉に、セリオはおしだまった。

 浩之は、セリオを抱きしめたまま、セリオの答えを待った。

 自分があせっているという自覚はあった。しかし、もう浩之は立ち止まることができそうに なかった。

 今、ここでセリオを本当に自分の大切な、かけがえのないものにしておかないと、後悔する。 わけもなくそう感じていた。

 そして、セリオは……

 セリオは、心の中で考えた。

 

 私はこの方に抱きしめられている。

 それがうれしくてしょうがない。

 そして、この方が泣くのが悲しくてしょうがない。

 この方は、私にとって、大切な主人なのだから。

 だから、よけいに……私は、この方の声に応じれない。

 

 セリオは、浩之の体を、そっと自分の体から放した。

 

続く

 

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