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銀色の処女(シルバーメイデン)

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 車を発進させようとしない長瀬。セリオには、長瀬が何を考えているのかを分かってはいた。

 自分達の父親であるこの方は、私に幸せになってほしいのだ。

 その気持ちは、セリオには痛いほど分かっていた。彼女はそのために、他人に幸せになってもらい たいがために、「自分のため」というメイドロボにとっては禁忌の方法を取ったのだ。

 だが、そこには大きな隔たりがあった。

 浩之は人間であるが、セリオは単なるメイドロボでしかないのだ。

 人間の幸せと、メイドロボの幸せ、それを比べればどちらが優先されるべきかぐらいセリオには よく分かっている。

 人間の方が優先されるべきなのだ。でも、長瀬主任はそれを拒む。

 この方にとって、私達メイドロボの方が人間の方より優先されるというのだろうか?

 もし、そうであっても、セリオはここから逃げなくてはいけなかった。この場所にこのままいては まずいのだ。

 もし、仮にもし浩之さんが私の後を追ってきたら……私は……

 そうなれば、セリオであろうと意志を通せる完全なる自信はなかった。浩之の言葉には、セリオを 動かしてしまうだけの力が十分にある。

 それを回避するためには、ここから逃げなくては。

 逃げる、そう、私は逃げる。それだけが、私が唯一浩之さんにすることのできる奉仕だから。

 長瀬主任が車を動かす気がないのなら、車を降りて、走ってもいい。全力で走れば、いかに浩之 さんだろうと追いつくことはできない。狭い路地に入ってしまえば、車でも追いかけることはできない。 私には逃げ切る自信がある。少なくとも浩之さんが私を呼び戻して、私がそれでもこの車を絶対に 降りないよりは自信がある。

 そう思ってから車のノブに手をかけるまで、2、3分の時間はあったかもしれない。それが 心のどこかでは浩之を待っているからだ、と言われれば、今のセリオには返す言葉もなかったろう。

 カシャッ

 軽い音とともに、残念ながら扉は開かなかった。

 セリオはゆっくりと長瀬の方を見る。

 長瀬は、運転席の横にあるコントロールでセリオよりも一瞬早く扉に鍵をかけていた。そこで 操作しないかぎり、鍵は開かないような構造になっている。

「悪いが、鍵はかけさせてもらったよ」

「……開けてください」

 まったく意味のない言葉だとわかっていても、セリオは長瀬にそう言うしかなかった。

「それはできない相談だねえ」

 長瀬はいつものどこかとぼけた顔をしながら、鍵のコントロールしている場所を手で隠した。

「お願いです、長瀬主任」

「だめだ、まだ10分もたってないじゃないか」

「……私は、一刻も早くここから動きたいのです」

「おやおや、藤田君も嫌われたもんだな」

「そんなことではありません。そんなことでは……」

 長瀬は自分の言葉に予想以上に動揺を見せたセリオに、少し微笑んだ。セリオが動揺を見せる など、そう見れるものではない。

「分かっているよ、セリオ。だから、私はセリオに意地悪をしてまでこの場所にセリオを引き止めて いるんじゃないか」

「やはり、意地悪なのですか?」

「……ああ、とっておきのね。セリオを、幸せにするための意地悪だ。もっとも、セリオが本当に 嫌がるのなら、セリオがここから動く方法がないわけじゃない」

 セリオは、その続きを予想して、何も聞かなかった。

「私から力ずくで鍵を開けるなり、キーを取って車を運転するなりすればいい」

「それが私にできるとお思いですか?」

「できるのならこんな軽口はたたかないよ。こんな歳よりと最新鋭のメイドロボが力比べをしたら 勝負は目に見えているからねえ」

 ある意味、もっともやっかいな相手だった。もし相手がどんな正論を言ってきたとしても、 平常のセリオなら言いくるめることもできたろう。しかし、残念ながら、セリオは平常心ではなく、 さらに言えば相手は最悪だった。

 長瀬には、もとからセリオと論する気はないのだ。ただ、時間をかせごうとしているだけ。そんな 相手を納得させることなど、セリオにはできない。

 しかし、ここでセリオも下がるわけにはいかないのだ。むしろそれは浩之や綾香、長瀬よりも 切実だったのかもしれない。

 浩之や、綾香、長瀬にさえ、「次」がある。しかし、セリオには「次」はないのだ。

 ここで失敗してしまえば、後がない。後は……

 後は、ただ自分の愛する人が、苦しむのを見るだけ。もう、何もできなくなる。

 私が……

 セリオは、拳を振り上げた。最新のメイドロボ、何か硬い物を使うという考えぐらい出てきそう なものなのだが、セリオはただ拳をふりあげた。

「お、おい、セリオ!?」

 さすがの長瀬も狼狽の色を消し切れなかった。

 当然だろう。今自分が最高傑作の一つと自負するメイドロボが、拳を振り上げているのだから。

 ガシンッ

 一撃目は、変な音だった。

 セリオはかまわずニ撃目のために手をふりあげる。

「やめるんだ、セリオ!」

 長瀬の言葉も、一応は耳には入っていたが、セリオはそれをそんなに苦労もなく無視した。

 ガシンッ

 一撃目と同じ音。やはりこんな狭い場所では思いきり力をこめるようになぐれない。

 一流の格闘家のデータをダウンロードすることも可能かもしれなかったが、セリオはそれを やはりせずに、セリオそのままでまた拳を振り上げた。

「セリオっ!」

 長瀬の言葉はほとんど悲鳴だったが、セリオは止めなかった。

 長瀬主任の命令に従う必要はない。だって、それは、全てのことを考えて、一番いいはずの 行動だから。

 セリオは、また拳をふりあげた。

 拳の肌の組織は壊れてはいるが、その中が完全に壊れることはないだろう。もしそうなっても、 ぶつけるだけなら十分役にたつ。

 振り下ろす。

 ガシャンッ

 今度は前と違う音がした。もう少しなのかもしれない。

 実に簡単で、実に効率的な方法だった。手一つで、このどうしようもない状況を打破し、自分の できる、いや、自分がすることができる最大の方法を取れるのだから。

「やめろ、やめるんだセリオ!?」

 長瀬主任、申し訳ありません。私は、傷つけさせてもらいます。

 セリオは、また拳をふり上げた。

 

続く

 

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