作品選択に戻る

銀色の処女(シルバーメイデン)

50

 

 自分の腕をつかんだ長瀬を、セリオはそのいつもの無表情な顔で見ていた。

「やめるんだ、セリオ。いや、やめてくれ」

 セリオは手を止めて、人工肌の切れ目から見える自分がメイドロボであるあかしの機械と、 長瀬を見比べる。

「放していただけませんでしょうか、長瀬主任」

 セリオはそう言ったが、振りほどこうとはしなかった。もとより、そんな行動ができるのなら、 力ずくで長瀬をどかして扉の鍵を開けていたろう。

 セリオには、人間を肉体的に傷つけることはできない。それは精神的には一時的に傷つけることを 選ぶことができるので矛盾しているようではあるが、セリオには、メイドロボにはどのようにしても できないことの一つである。

 だが、反対に、自分を傷つけることは可能なのだ。それが肉体的にでも。

 もちろんそれは単に結果としての話ではある。しかし、できないとできるとの間には大きい差が ある。メイドロボは、自分を傷つけれる。

 だから、セリオは車の窓ガラスを拳で叩けたのだ。

 メイドロボの体はうまくできている。もし破損個所があっても、すぐにそこにエネルギーが共有 されないようにできるので、人間にあるような出血多量で動けなくなるなどということはない。

 ただし、メイドロボは人間のように放っておけば傷がふさがるわけではない。どんなに小さな 傷も、ちゃんとした設備がある場所で直さないとなおらないのだ。

 メイドロボの傷痕は、ある意味人間のそれよりもグロテスクだった。流れるべき体液などないの で、傷痕は綺麗に外気に晒されるのだ。

「この車の窓は防弾ガラスだ、いくらセリオでも壊せない。もうやめるんだ」

 しかし窓にはヒビが入っていた。それはそうだろう、メイドロボであるセリオが、自分のそんなに 頑丈ではない拳を壊すこともいとわずに力まかせに叩きつけていたのだ。

 セリオにももちろん痛みを感じる感覚はある。それは自分の体の故障を自覚させるための感覚で あり、実際にその拳の傷はかなりの不快な感覚としてセリオには知覚されている。研究者の間でも その感覚には賛否両論あったが、「メイドロボが傷つくのを防ぐにはこれが一番だ」という結論で、 痛みを感じる感覚はメイドロボにつけられた。

 しかし、メイドロボ達は知っていた。その感覚が、メイドロボにとって回避すべききつい、本当の 意味での「苦痛」であることと、それを知ってもなお、メイドロボ達は主人のためにならその苦痛に 身をゆだねることをためらわないことを。

 もちろん極力メイドロボ達は自分達が傷つくことを回避する。それはメイドロボの傷を見て、 想像以上に人間が取り乱すからだ。

 メイドロボ達はそれについては何も考えていないが、もし人間が考えればおかしな話だった。 人間は、メイドロボをメイドロボとしか考えていないのに、その傷を見てメイドロボが人間でないこと を認識するのが嫌なのだ。それが決してメイドロボが傷つくこと自体を嫌がっている、とは誰も 確信持って言えはしないだろう。

 そして、長瀬も狼狽していた。しかし、この男なら、本当にセリオが傷つくのが嫌なのかも 知れない。セリオの皮膚の中をいつも見ているのだから。

「自分を傷つけないでくれ、セリオ」

「……では、私を車の外に出してください。それが誰も、私も含めて、傷つけない方法です」

「……」

 単なる押し問答になるのはセリオにも分かっていたが、長瀬が力ずくでセリオを引きとめようと する限り、セリオは根気強くそう長瀬を説得するしかないのだ。

 この窓ガラスを割ろうとした行為も、その説得の一つなのかもしれない。もちろんガラスが割れ ればセリオは車から出てここから走りさるつもりだった。しかし、セリオが傷つくという行為は、 誰も、人間の誰も傷つかず、ここから逃げれる最高の手だったとセリオは思っていた。

 セリオは嘘をつく。自分が人間の方が苦しむのに耐えられないと。

 セリオは嘘をつく。ここで車を降りれば、自分も傷つかないと。

「長瀬主任、私はもうここにはいたくないんです」

 胸を貫くような、その拳の傷よりもセリオを不快にさせる痛み。自分のためという言葉は、何より セリオを苦しめる。

 そして、セリオは嘘をつく。ここから離れたくなどないのに。

 長瀬が、セリオを人間以上であると意識しようとすればするほど、この嘘は効果を発揮するはず だった。このままではセリオ個人の意思を長瀬が尊重していないことになるからだ。

「私をここから逃がしてください、長瀬主任」

 セリオには、ここまで来て何とかこの戦いに勝機を見出したつもりだった。このまま戦えば、 おそらく長瀬主任であろうとおれると、そういう意識がセリオにはあった。

 しかし、セリオも一つだけ失念していることがあった。

 それはメイドロボにしてみれば当然考えていないことなので、ここではセリオが悪いとは言えない だろう。

 セリオの失念、それは、人間はメイドロボよりも優れているという考えを、それでも信じている ということだ。

 つまり、メイドロボの考えることは、人間の考えることの下にあるものなので、人間が自分で ランクを下げようとしないかぎり、メイドロボの考えには行きつくはずがないのだ。

 しかし、ここでおかしなことが起こる。セリオはそう思っていても、それは浩之に否定されて いるのだ。その言葉は今でも少しもセリオは納得できていない。しかし、浩之の言葉を納得しようと すると、またおかしくなる。

 結局、セリオは分からなかったのは一つだけ。人間が『心』を成長させようとすれば、良くも 悪くもメイドロボに近づくことを、セリオは分からなかったのだ。

 だから長瀬が、セリオと同じように、例え他人が傷ついても、最終的に自分ができることを してくるなんて、思ってもいなかったのだ。

 長瀬は、セリオの予測を裏切って、強くセリオの腕をつかんだ。

「だめだ、いかせない。セリオが嫌がっても、絶対に行かせない。セリオには、何を踏みにじって も幸せになってもらわないといけないんだ!」

 もう、何があっても、浩之が来るまではセリオを放す気などない。長瀬のいつもならやる気の なさそうな目はそう言っていた。

 その長瀬の姿は、長瀬が人間で自分はメイドロボだと分かっていても、セリオには まるで鏡の中の自分のように写った。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む