銀色の処女(シルバーメイデン)
セリオには途惑う要因が多すぎた。本当なら、今この場に自分がいないはずだろうことも含めて、 現実には起こりえない状況に自分がいるからだ。
その中でも一番大きい途惑っている要因は、自分がただ浩之の横に座っていることだった。
元来、セリオは実験の場合もあるが、どこにいるときも、それは主人の、人間の役にたつための 行動であり、存在であるはずだった。
だが、自分から「一緒にいたい」と言って望んでここにいる自分が、一体どういう存在なのか をセリオ自身、理解できなかったのだ。
自分が、特異な存在であるという自覚はあった。しかし、その自覚は何につけてセリオの役 にたつわけでもなく、セリオを途惑わせるばかりだ。
主人の、いや、愛する人の横に座っているだけのメイドロボに、どれほどの価値があると言う のだろうか。
「セリオ、どうしたんだ」
不安の色が見て取れたのだろう、浩之はセリオに訊ねた。
この人は、敏感すぎる。メイドロボの不安さえ、気がついてしまうほどに。
自分の不安を隠し切れないなど、メイドロボにあるまじき……そう、そうだ。私は、もう……
「何もせずに座っているというのに、慣れていないので」
セリオは簡潔に浩之の質問に答えた。嘘ではない、きっとこれで料理を作ったり掃除を したりすればある程度は自分も落ちついていられるはずだ。
「こういう状況は……嫌か?」
「……いえ、本当にうれしいです」
浩之は、セリオの横に座って、セリオの手をにぎったまま、何も言わずにいてくれる。
望むべくもない、ただただ幸せなこの時間。うれしくてうれしくて、また泣き出してしまいそう になるほどだ。
だが、それがいっそうセリオを不安にさせる。
望んで得たものではあっても、セリオにはこの状況に完全に慣れるということができないのだ。
理由はごく簡単は話だ。
私はもう、メイドロボではない……
それが、セリオの胸の奥をチクチクと刺す。だからセリオはこの幸せにそのまま身をまかせる ことができない。
自分の存在が何なのか、セリオには確信がないのだ。人間でもない、そして主人のためでなく、 自分のために、自分の願いを満たした時点で、メイドロボでもなくなった。
そこにいるのは一匹の蝙蝠。
……違う、蝙蝠は哺乳類だ。自分も、メイドロボだ。
しかし、ここにいるのは、どちらでもない、どちらにもなることの許されない、中途半端な 存在だ。
浩之さんは優しくそんな私を迎え入れてくれるだろう。浩之さんが求めているのはメイドロボの 私でも、人間の私でもなく、ただ私個人。
何て幸せなことなのだろう。メイドロボである私が、個人で愛されるなど、きっと起こり得ない 幸せだ。そして……
そして、私は浩之さんのために、これから何をすれば……
この考え方自体、もう古いものだとセリオも自覚はしていた。すでに主人の幸せを裏切った後 だ、今さら何かをしようなんて、虫が良過ぎる話だ。
でも……動かないと不安になる。
人のために何かをすることはできない。もうメイドロボを裏切った自分には、罪深過ぎる行為、 他のメイドロボ達を冒涜する行為だ。しかし、だからと言ってすぐに自分のために動く…… というほどに割り切れない自分がいるのも確かだった。
そこまで浩之が理解したのかどうかは分からなかったが、セリオの言葉に浩之は納得した ようだ。
「ああ、そう言えばマルチも働くのは大好きだと言ってたな」
「はい、それが私達メイドロボの生きがいでもありますから」
その生きがいを……私は、捨てた。
「でも今日はもう夕食も食べたしなあ。今から風呂に入るってのも何だしなあ」
少しずつ、いつもの浩之に戻り始めていた。もう強く自分を出さなくても、一応の決着をつけた と思っているのだろう。
しかし、その浩之の不変性の態度でさえ、セリオを安心させることができない。
セリオは焦っていた。何より恐いのは、この不安を浩之に気付かれることだ。じきに気付かれる のは目に見えている。相手は浩之なのだから。
だから、せめて何かをして心を落ちつけようとセリオは考えるのだが、何もすることがない。 何か問題が起こって欲しいなど、セリオは初めて考えた。
「どうする、今日はもう寝るか?」
今その前にあそこまでつらく痛い言葉を交し合ったはずなのに、浩之からはもう緊張の色が 見て取れなくなっているのだ。それは彼の強さか、それとも単なる性格なのか……
「……はい、それでは浩之さんがよく眠れるように、ホットミルクを作ってきます」
セリオはまた前とは違った罪悪感を感じながら、浩之のために動くことしかできなかった。 愛する人と一緒にいれるだけでなく、さらにその人のために何かできるなど、メイドロボとしては 最高の状況のはずだ。だからこそ、セリオは苦しい。
セリオは、ソファーから立ちあがって、台所に向かおうとした。
「セリオ、その手……」
セリオはその言葉で、はっとして左手を隠した。が、もう遅かった。
車のガラスを割ろうとしたときに、セリオの左手は傷つき、機械の部分が露出していた。が、 セリオはそれを反射的に、女の意地か、はたまたメイドロボの気遣いかは分からないが、隠した。
だが、一瞬気が抜けたのかもしれない、セリオはその左手の傷を隠すのを忘れた。
「待ってろ、もう一回長瀬のおっさん呼ぶから!」
浩之の言葉には「どうして」という言葉はなかった。すぐに車の窓のことを思い出したのだ。
あの状況を見れば十分予測できたことなのに、何故気付かなかった!
「お気になさらずに。私はメイドロボです。人間の方のように痛みは感じません」
それは嘘だ。だが、セリオにとってはこれ以上浩之や長瀬に迷惑をかけることの方が嫌で仕方 なかったのだ。
だが、セリオが無表情なのは、それを肯定してるからとは浩之は捕らえなかった。セリオは往々に して無表情なのだ。
「んなこと信じれるか、待ってろ、すぐに電話で……」
その言葉に、セリオは思う以上に敏感に反応した。立ちあがった浩之の腕をつかみ、きつい口調で 言った。
「お願いですから、放っておいてください」
「セリオ……」
浩之は、普通ではないセリオの反応に、動きを止めた。
「浩之さんのその私を気遣ってくださるお気持ちは大変うれしいです。ですが、今は放っておいて ください。明日になればおそらく長瀬主任はこの傷のメンテナンスに来ます。ですから」
浩之の気持ちは、セリオにはよく分かる。そして、その気持ちが、泣きたくなるほどうれしいのも 確かだ。
だが……
セリオには耐えれない。こんな状況を長く続けられるほど、メイドロボは頑丈にはできていない。 例え浩之の助力があったとしてもだ。
むしろ、助力があればあるほど、それはセリオにとって辛い。
「私にこれ以上、人に迷惑をかけさせないでください」
続く