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銀色の処女(シルバーメイデン)

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 セリオは、キッチンでもう冷たくなっているマグカップを手で玩んでいた。

 メイドロボであるセリオは当然ホットミルクなど飲まない。今手にしているので浩之の飲んだ 後のマグカップだ。

 ふと、明かりをつけたままなのに気がつく。

 電気代の節約のために、消さなくては。

 メイドロボ全般には一応暗闇でも見えるように赤外線視界がついている。もちろん、セリオにも その機能はついている。

 だから、実を言うと人間さえいなければ、明かりというものは必要ない。しかも、セリオに ついているのは、当然高機能のものだ。

 だが、そういうことを気にしているのは、何も本当に電気代節約のためではなかった。何か別の ことを考えていないと落ち着かないのだ。

 それこそおかしな話だが、メイドロボはつねに何かを考えている。人間はその必要がないのかも しれないが、メイドロボはその経験などをまとめるために、何もしていないときでさえつねに頭の中の プログラムを動かしているのだ。

 だからと言うわけではないが、メイドロボも情緒不安定になることがある。それを解消する 方法はいくつかあるが、一番てっとり早い方法はまったく別の関係ないことをすることだ。

 この「マグカップを手で玩ぶ」と言う行為も、その一つだ。

 長瀬は別にそこまで人間に近づけようとしたわけでもなかろうが、結果としてやはり人間の取る 行動は、思考を安定させるには非常に正しい行動なのだ。

 セリオは考えあぐねているのだ。手でマグカップを玩び、不安を消そうとするほどに。

 自分のやろうとする行動が定まらないのだ。セリオはここに残ることを選んだとき、何も後の ことを考えていなかった。

 ただ自分の今までの行動を否定することだけを考え、自分の今までを捨てることだけを行って きたにすぎない。

 全ては、浩之さんと一緒にいたいがために。

 それだけを考えて、セリオはここに残り、今何をするべきなのか見失っていた。

 それが証拠に、心の中で明かりを消さないとと思いながら、セリオは結局座ったままマグカップを 玩ぶだけだ。

 もうこんな深夜では掃除もできない。時間をつぶすだけなら明日まで眠っていればいいだけなの だが、何故か眠る気にはならない。

 もし、目を覚ましたとき、これが夢で、私はいつものように研究室のポットで目を覚ましたら どうしよう。

 ……怖くて、甘美な恐怖だ。私は、決断の必要もなく、現実に戻っていく。

 しかし、メイドロボは夢は見れても、それは単に現実に起こったことをまとめているだけで、 自分で創作した夢は、どんなにそれを望んでいても見れない。

 後悔などというものではなかった。セリオは、ここに残ったことを心の底から後悔していた。

 他人に、この決断をまかせれたら、どれほど楽だったのであろうか。そう考えることを頭の中から 消してしまうことができずにいた。

 自分を完全に否定する選択、それを選んだセリオは、これから後、多くの苦しみの待つ棘の道を 歩かなくてはいけないのだ。

 いや、自分が苦しむだけなら、例え思考プログラムが負荷でオーバーヒートしても進もう。 しかし、浩之さんが苦しむ生活に、私はいったいいくら耐えられるであろうか。

 不安に、マグカップを持つ手に力がこもる。

 浩之さんに手を握ってもらっていても、この不安を消すことはできなかった。しかし、浩之さん の手を離れ、ここにある自分の手は何て……

 何て、冷たいのだろうか。

 浩之さんのいない空間は、何でこんなにさびしいのだろうか。

 ぬくもりを求めてさまよう手は、マグカップにそれを求めたのだろうか?

 分かっている、自分が何故こんなにさびしいのかを。

 浩之さんがマグカップから甘いホットミルクを飲むのを見ている間に、私に流れ込んでくる暖かい 感触が、私を今こんなにさびしく、冷たくしているのだ。

 セリオには飲めなくても、浩之に飲んでもらうことはできる。そう、飲んでもらうことこそが、 セリオの、メイドロボの喜び。

 人のために何かをするというのは、何て暖かいものなのだろう。

 その衣から外に出たセリオはそれを痛感したのだ。その衣は、今まではセリオをずっと守り、 暖めていてくれたことを。

 その衣を脱ぎ捨てたとき、セリオはその冷たい強風の中に立たされる。自分を守ってくれるのは ただ一人、浩之だけなのだ。

 そして、その浩之でさえ、自分を傷つけずにはおれないのだ。

 無くしてしまって初めて気づくものがある。昔の人間は水の中に長時間いれば死んでしまうことは 分かっていても、大気の中に酸素が入っているから死なないことなどしらなかったのではないか?

 それと同じ、いや、もっと言えば、分かっていたつもりだった。しかし、認識が違って いたのだ。

 人に尽くすのは、メイドロボにとっては大切なことだ。それはわかっているつもりだった。 しかし、ぞれで自分が死なずにすんでいることを理解するのは容易なことではないのだ。

 浩之がホットミルクを飲みながら言った「あったかいな」という言葉が、耳から離れない。 その少しの感謝を含んだ言葉だけでも、セリオには捨てれない。それを糧にしていないと、この 状況を乗り切れない気がした。

 さびしい、浩之さんと、一緒にいたい。

 しかし、浩之といる時間が長くなれば、それは単純に破局に向かっていることになるのだ。

 覚悟して選んだのに、それに徹しきれない。それはセリオの意思の不徹底のせいであったの だろうか?

 もしそうだとしても、ここまで分かっていて徹しきれる者がいるだろうか?

 無知は罪だ。だが、無知であることによって救われることもある。少なくとも、風はいくらかは 弱まる。その強風に立ち向かおうとしてそれを知ろうとするかどうかはその個人の資質だ。

 そしてセリオは資質いかんによらず、知ってしまった。

 ただ苦しいだけの日々を。

 さびしくて仕方のない日々を。

 そして、自分の望みをかなえれしまえることを。

 知ってしまったなら、足はすくむだろう。しかし、そこからもまた逃げれなくなってしまうのだ。 苦痛と同異義語のようにつきまとううれしさを知ってしまったのだから。

 だから、セリオはマグカップを玩んで強風の中をやり過ごそうとしている。次の朝には、また そのうれしさを感じれることを望んで。

 マグカップは、もう手の中で、セリオの体温よりも冷たくなっていた。

 

続く

 

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