銀色の処女(シルバーメイデン)
浩之は朝には弱いが、今日ほど学校に行きたくない日はなかった。
身体がだるい。それが病気でないことぐらいは予測がついた。
学校に行きたくないのだ。正確に言えば、今セリオを置いて学校に行くことをしたくない。
おそらく今日は長瀬がセリオの手の怪我を治しに来るだろう。さすがにあの傷を治さないまま 学校には行けない。あの傷を見て人間が感じる衝撃は、大きなものだ。
どれだけの設備があればあの傷が治せるかどうかは浩之には分からない。下手をすれば、一度 研究所に戻らなければならないだろう。
そのときに、浩之は一緒について行くつもりだった。メイドロボを設計する場所の人達とも 話をしたかったし、何よりセリオを一人で研究所に帰すつもりはなかった。
だから、今日は学校を休みたかった。
実は、浩之が学校を休もうと思うことはほとんどなかった。授業をまじめに聞いているかどうかは 別にしても、ズル休みなどはしない。むしろこれは異例のことだったのかもしれない。
しかし、浩之には今日学校を休む理由があったし、そして浩之が学校を休むことを嫌がる者も いるのだ。
「浩之さん、起きてください」
セリオは、さっきから一生懸命浩之を起こそうとしている。昨日のことを学習しなかったの だろうか?
浩之は意地でも起きまいとして、シーツにくるまった。
「う〜ん、今日は休む……」
「……失礼します」
セリオはそう言うとシーツをめくり、浩之のおでこに手をあてた。
「……熱は平熱のようですね。では学校を休むことはいけません」
セリオは冷静にそう言ったが、もちろんそんなことで浩之を動かせるわけはなかった。それが 意味がないともしセリオが理解してたいたとしても、セリオは起こすのをやめることはないだろう。 それがメイドロボにとっての常識だ。
そう、メイドロボの。
今のセリオは、メイドロボなのだろうか?
一つ分かっていることは、ここで浩之がセリオと一緒にいたいから学校を休むと言っても、 セリオはそれを承諾したがらないだろうということだ。
セリオは、メイドロボであり、主人の社会生活をできるかぎり補助するものなのだ。だから 浩之が学校をズル休みすることを許すわけが……
いや、そんなことではない。もう、セリオはこれ以上人に迷惑をかけたくないのだ。
それを知ってしまった以上、浩之の出足は鈍っていた。
幸い、浩之はベットの中で駄々をこねるのはなれたものだし、セリオはそんなことには当然 なれていない。セリオが実力行使しない以上、浩之は無理やりにでもベットにしがみつくことは 可能だ。
だが、もう一つ浩之の行く手をさえぎる者がいる。
あかりだ。
あかりは当然今日も俺を迎えに来るだろう。さすがの俺も、あかりに起こされるとなると 起きないわけにはいかないしな。
ということはここでねばっているのは無駄なような気もしないでもない。
浩之は、2、3分ねばっただけで、結局はそれに気付いて起きた。もとより目はさめているのだ。 これ以上ねばっても仕方ないだろう。
「おはよう、セリオ」
「おはようございます、浩之さん。朝食の用意はもうできています」
昨日のことはまるで夢だったような無表情のセリオ。いや、これは昨日も同じだ。彼女は、 間違いなく変わっている。
「ありがとな、セリオ」
浩之は、少し感慨ぶかげにそう言った。それを聞いたセリオの反応は、確かに違っていた。
「……いえ、当然のことですから」
表情には変化はなかったが、そのとき確かにセリオは泣き出しそうだった。そういう表現が正しい のかどうかは別にして、セリオは確かに泣き出しそうだったのだ。
「どうかしたのか、セリオ?」
浩之は気付いていないふりをしてそう軽い口調で言った。
「いいえ、何でもありません。それよりも、急いでください。まだ余裕はありますが、ゆっくり しているほどの時間もありません」
セリオは勤めて事務的なことを言ったようだった。まるで自分の感情を読み取られることを 嫌がったように。
このセリオの姿を見ても、まだ人間はメイドロボと人間が違うと言い切るつもりなのだろうか。 それは、まさに人間そのものだ。
あのできそこないの『シルバー』とは全然違う。本当に、感情というものを自分のものとしている 姿だ。
浩之は寝不足の頭をふりながら立ちあがった。もちろん身体がだるいということもない。今まで ねばっていたのも、体調が悪いとかそんなことはまったく関係なかったのだから。
「そうだな、あかりが来る前に準備は終らせとくか」
セリオは一例をすると下に下りていった。浩之は素早く着替えると、ダッと走って階段を下り、 洗面所に行って手早く寝癖をなおし、顔を洗う。
時間的にはいつもよりも十分余裕がある。
浩之はキッチンに入った。丁度セリオがご飯をよそっているところだった。
「すぐに食べられます」
「ん、ありがと、セリオ」
「はい」
セリオはスッとイスを引いて浩之を座らせた。単に家で朝食を食べているだけだと言うのに、 どこかのレストランにでも行った気分だった。
目の前にはご飯にお味噌汁、ベーコンエッグに軽く野菜がつけてある。
「へえ、純和風ってわけでもないみたいだな」
「本当は塩ジャケにするつもりでしたが、今は魚の値段が高いので避けました。焼き魚の方が よかったでしょうか?」
「いや、いいって。セリオの作ってくれるものはどれもうまいし、金を節約しろと言ったのは 俺だしな」
浩之は「いただきます」と言うと並べられた朝食を食べ始めた。昨日色々あったせいもあるが、 浩之は朝から十分食欲があるようだった。
数分もたたないうちに目の前の朝食がなくなり、浩之はコップの牛乳を一気に飲み干した。
「ふう、ごちそうさま」
浩之はちらっと時計を見た。時間はまだいつもよりも早い。
「セリオ……今日はお前はどうするんだ?」
「はい、今日はこの手の故障を直さなくてはいけないので、学校には行けれません。浩之さんが 出るときに一緒に出て、研究所に一度戻ろうと思います」
「それなんだが……なあ、セリオ。無理行ってここで治せないのか?」
「それは……一応、ここでも治せるとは思いますが……」
「だったら、長瀬のおっさんを家に呼んでくれないか?」
「長瀬主任は忙しいと思われますが」
「大丈夫だって、愛娘のためな……」
浩之は、そこで言葉を止めた。それ以上言うのははばかられたのだ。セリオは、長瀬に迷惑を かけることもよしとしないだろうから。
「……わかった、今日はなるべく早く帰ってくるから、それから一緒に研究所に行こう」
「しかし、この程度のことで浩之さんの手を煩わせることも」
「いいから」
浩之は、少しだけ口調を強めた。
「俺が、ついて行きたいんだ」
「……はい、分かりました。それでは今日は浩之さんが帰ってくるまで家にいることにします」
「そうしてくれ。あ、セリオ、俺は学校行くから、あかりが来たら先に行ったって言ってくれ」
セリオは少し首をかしげた。
「あかりさんを待たないのですか?」
「ああ、俺が早く起きたときはいっつも先に行ってるぜ。別に一緒に行く約束をしてるわけじゃない しな」
「はい、わかりました。伝えておきます」
「ん、たのんだぜ。じゃあ、今日は家でおとなしくしとけよ」
「はい」
浩之は、鞄を持つと玄関に向かった。セリオも、当然送り出すためについてくる。
「じゃあ、セリオ。いってきます」
「い……」
セリオは、少し何故か戸惑ってから言った。
「……いってらっしゃい……ませ」
浩之は、少し名残惜しかったが、それは表には出さずに、笑顔で家を出た。
その朝、あかりは浩之の家には来なかった。
続く