作品選択に戻る

銀色の処女(シルバーメイデン)

75

 

「うん、私は、浩之ちゃんが好き」

 志保は、人生の中で、これほど聞き間違った方が幸せだと思ったことはなかった。何とそのあかり のはっきりとした声がうらめしく思ったことか。

 しかし、聞き違え様もない。あかりは、まるで志保のその気持ちを知っているかのように、 どうしようもないぐらいはっきりとした声で言ったのだ。

 その重大さをわかっていないはずもないのに、あかりの声には震え一つなかった。そして、 まっすぐに志保を見ていた。それは、絶対に病人の目ではなかった。

「私は、浩之ちゃんのことが大好き。他の誰よりも、この世で一番大好き」

 あかりは、そう言ってから、志保には信じられなかったが、微笑んだ。その言葉を本当にいと おしく思っているように、浩之のことを本当に愛しているように。

「……あ……」

 志保は、そのあかりの言葉と、その表情に言葉を失った。

 そのあかりの幸せそうな、ただそれを口にするだけでも志保が見たこともないような幸せそうな 、顔。それが、志保の胸をキリキリと締め付ける。

 ああ、何でこんなに、私、苦しいんだろ?

 志保は、比喩ではなく息苦しく、いや、痛む胸を押さえた。表情は、なるべく変えないように 心がけているが、どれだけどれができているか自信はなかった。

 あかりがヒロのことを好きなことぐらい、私が一番知ってたはずなのに。

 それは何の誤解でもなかった。志保に本当にその覚悟がなかったわけでもなかった。この場合は、 知っている、というのは、理解している、と同義語だ。

 それでも、それだけに、志保の胸は痛まずにはいられなかったのかも知れない。

 志保は、全力で笑おうとして、ここは普通でも笑うべきところではないことに気付き、変な、 ひきつったような表情をうかべた。

 そんな志保の態度に、それでもあかりはその態度を変えることはなかった。全て知って、という よりは、全てを悟って、というように志保には見えた。

「……あ、あかり……」

 カラカラに渇く喉から、志保はそれでも声を絞り出した。

「……あかり、だったら、何で……」

 志保にも胸が痛くなるほどに伝わってくる、あかりの「浩之が好き」という気持ち。だが、だから こそ、あかりの行動は、あかりの考えは志保には不自然に見えた。

「何で……何で、あんたはあせらないのよ!」

 自分の胸のもや、というよりも、もう完全なしこりとなって付着するその思いを、志保は剥ぎ取る ように声を大きくした。大きな声をあげると、自分の中のリミッターが外れるらしいが、今の志保は、 本当に自分の中にリミッターがあるなら外れて欲しかった。この心の中にあるものを、ちゃんと言葉 に出してあかりに伝える自信がなかった。

「わかってんの、あかり。あんたのその大好きなヒロが、他の女、しかも人間ですらないような やつに取られるかもしれないのよ、何でそれなのに焦らないのよ!」

 志保には、理解できないのだ。あかりが、それを甘く見ているわけがないのに、現実として 受けとめていないわけがないのに、このあかりの落ち着きぶり、悟ったような態度が、余計に志保を いら立たせるものだ。

 今まで、志保はあかりのことを、誰がどう言おうと、自分で「恋敵」と考えているときでさえ、 親友だと思ってきた。だが、この短くも、長いあかりとの付き合いの中で、理解できない「あかり」 はどこにもいなかった。

 しかし、今目の前にいるのは、理解できないことを考えて、理解できない表情をして、よく 知っている、ヒロを大好きな「あかり」。

「私には、あんたが何を考えてるのか、わかんないわよ!」

 好きなら、それを手に入れれないことは、あまりにも恐ろしいことのはずなのに、こんなにも、 自分がヒロを手に入れられないのを苦しんでるのに、何であかりは……あかりは!

 胸の内でも、その表情でも声でもいら立ちと、必死な何かを伝えようとする志保に、あかりは 何もあわてた様子はなかった。どちらかと言うと、おっちょこちょいで、恐がりと思っていたあかりが、 まったく別の、もっと何か違うものに志保には見えてきた。

 あかりは、ゆっくりと、言い聞かせるように口を開いた。

「私は、浩之ちゃんが好き。でも、浩之ちゃんが私のことを好きでいてくれるかどうかは……一番と いう意味でなら、自信はないの」

 すかさず、志保は言い返した。

「だったら、どんな手を使っても、ヒロを自分に振り向かせるしかないじゃない!」

「ううん、そんなことできない」

 あかりは、大きくかぶりを振った。そして、本当に確信しているのだろう、断言した。

「浩之ちゃんは、女の子を愛するときでさえ、優しさからだから」

「それがどうしたってのよ!」

 ヒロが優しいことぐらい、私だって知ってる!

 その言葉を、志保は寸前の所で留めた。それは、自分も浩之のことを好きなのを、暗に示して いる言葉に他ならないと思ったからだ。

「志保も、よく知ってるよね? 浩之ちゃんが優しいこと」

「……」

 志保は飲みこんだ言葉を、もう一度飲みこんで、ただうなずくだけしかできなかった。

 ここまで来ても、志保はあかりに自分が浩之のことを好きなことだけは悟られないように努力 してきた。うかつにでも、口をわるつもりは毛頭ない。それでも、それについては知らないふりは できなかった。浩之もまた、親友、いや、悪友であるのだから。

「浩之ちゃん、優しいから。女の子を好きになるのも、優しさから。だったら、私は何も言えない。 浩之ちゃんが選ぶことには何も……」

「どうしてよ、何で何も言えないのよ。私にはあかりの言いたいことがさっぱり 分からないわよ!」

 志保はたまらず言い返していた。あかりが何を言いたいのか、何を望んでいるのかが、志保には まったく分からないのだ。

「ヒロのことが好きなら、指をくわえて見てるのが正しいとでもいいたいの?」

「そう、かな」

「そんなの正しいわけないじゃない。ほっといたら、ヒロが他の人のものになるのよ!」

 志保がどれだけ叫んでも、あかりは何一つ焦った表情を浮かべることがない。それは、他でも ない、本当の決意の現れなのだが、志保には、もちろんそれが分からない。

 いや、今現時点では、それを分かっているのは、あかりだけであろう。

 だからあかりは、どんなに志保に言われても、浩之を自分の方に向かせることはできないのだ。

 それを、ちゃんと説明しなければ、いや、説明してでさえ志保は納得しないかもしれない。

 あかりは、そのどこかに微笑みをたたえた顔で、言った。

「浩之ちゃんの一番いいところは、その優しさだから、それだけは、私は邪魔できないよ」

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む