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銀色の処女(シルバーメイデン)

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「あら、浩之ちゃん、帰るの?」

 浩之が階段を降りてくる音に気付いて、ひかりがキッチンの方から出てくる。

「あ、ええ。あかりも別に元気そうだったんで」

 それに、これ以上ここで時間を潰すわけにはいかなかった。あかりの見舞いには来たが、基本的 に浩之に時間的余裕はない。時間の許す限り、セリオと一緒にいた方がよいと浩之は考えていた。 例え、それが傷を広げる結果になったとしてもだ。

「そう、せっかく一緒に晩御飯を食べようと思ったのに。あかりはいないけど、中年おばさんの 相手は嫌?」

「いや、そういうわけじゃないんですけど……」

 ひかりは、浩之の反応を見てくすくすと笑っている。

 ひかりの言う事が冗談なのは知ってはいたが、だからと言って浩之にとってそれが苦手でない 理由にはならなかった。もう本当に小さいころから浩之のことを知っているひかりには、親に対して とはまた違った意味で苦手な部分がある。

 もちろん、ひかりのことは嫌いではない。ただ、あちらの方が一枚上手なだけだ。

「まあ、浩之ちゃんが私と一緒に食事をしたら、あかりが焼いちゃうし、あかりに無理をさせる わけにもいかないから、今日はあきらめるわ」

 そう言って、わざとらしくため息をついてみたりする。ひかりは、浩之を見るとどうしても からかいたくなるようだった。これが、あのあかりの母親とは思えないふしもある。が、やはり 雰囲気はあかりにそっくりであり、ついでに言うなら、顔もあかりにそっくりだ。いや、あかりが、 ひかりにそっくりだと言った方がいいのだろう。

 ひかりは、あまり浩之をからかうのは悪いとでも思ったのか、すぐに浩之を解放した。

「今日の所はさよならね。またいらっしゃい、浩之ちゃん」

「あ、はい。おじゃましました」

 浩之はがらにもなく、頭を下げてから玄関で靴をはいた。

「あ、そうだ。浩之ちゃん?」

「はい?」

「何かこまったことがあったらおばさんに言ってちょうだいね。浩之ちゃんは、私にとって子供 みたいなものなんだから」

「はい、風邪をひいたときはお世話になりますよ」

「そうしてくれるとおばさんもうれしいわ」

 と言った後、ひかりはまたまったく邪気のない笑顔で、意地悪な言葉を言った。

「もっとも、きっとあかりが出てきて私の出る幕なんてないでしょうけど」

 そして浩之が一番ひかりを苦手だと思う部分は、こういう浩之とあかりをくっつけようとする 、またはそれに類する発言をするところだった。それはからかう、というよりは、希望を口にして いるという節があった。

 そしてまた問題は、浩之が風邪をひけば、どんなに断ったとしても、あかりは絶対に看病しに、 下手をすると学校を休んでまでさえ来るだろうことも、予想できた。

 だからこそ、このひかりの言葉が苦手なのだろうと、浩之は考えていた。

 あかりは、まわりはどう思っているのかは知らないし、気にしないが、親友でもあり、兄弟でも あり、そして、ある意味を置いては、恋人に近いのかもしれない。

 しかし、そこには男女間の愛があるのかと言われると、正直分からない。二人は、昔から一緒に いて、それこそ空気のような存在なのだ。

 夫婦、という見方は、ある意味的を射ているのかもしれない。持ちつ持たれつという関係、 いや、持ちつ持たれつとさえ思うことのない自然の関係。

 でなかったら、いくら幼馴染みとは言え、浩之はここまであかりと一緒にいることはできな かった。何度かは好きになるのは、きっとこいつだろう、どこか観念したようなことを心の端で、 自分では納得してはいないが、と考えたことさえあった。

 しかし、今気付いてみると、浩之が愛したのは、身体の中に血の通わない、そのかわりに、 人間をはるかに凌駕するような心を持った、まだ長い付き合いでもない、セリオだった。

 それに関しては、別に何も後悔はしていない。愛するというのは、論理的にするものでもない し、浩之はそれをほとんどない経験からでも知っていた。

 それによって、あかりとの関係が微妙に変わったりすることなど浩之は心配していなかった。 というよりも、心配どころか、考えさえしなかった。

 それだけ、ある意味あかりを信じているし、その程度信じてもいい関係だ、と浩之は考えている のだ。

 浩之が世界で一番信じている相手に、一番無茶な信用を置いている。

 それは、この世で浩之の行う、一番残酷なことなのかもしれない。例え、それをあかり自身が 望んだ位置だとしても。

 外は、そこまで寒い季節でもないだろうに、冷えこんでいた。まだ日が落ちて何時間ほどしか たっていないのに、まるで太陽が昇る直前のような寒さだ。

 浩之は、ブルッと身体を震えさせると、少し早足で家に向かった。

 それは別に寒いからではない。心が、急かすのだ。早く家に帰れと。

 そこが、どんなに針で作られた場所であっても、自分のいるべき場所は、その銀色の身体の 中なのだと、心が訴えるのだ。

 それと同時に、その針の痛みを、身体が思い出す。それは、浩之の絶えれるぎりぎりの所を 風に乗って滑空しているのだ。もし一歩でも間違えば、落ちるかもしれないあやふやで、不安定な 場所を飛びつづけることが、自分には可能なのだろうかという疑問も生まれる。

 断崖絶壁から、足を踏み出すのは、決心すればできる。しかし、それはその後に、飛んでいる状態 でバランスが取れるということとはまた大きく違う話だ。

 正直に言うと、浩之にはバランスを取る自信はない。また、だからと言って取り乱すほど度胸 がないわけでもない。

 細心の注意をはらえば済む問題ではないので、浩之としては手の打ち様がないだけなのだ。

 しかも、その乱気流は、突然浩之を襲う可能性が高い。こういうものの基本として、一番油断 しているときにだ。

 例え浩之と言えども、生理現象を押さえ切るなどという無茶なことはできないのだ。それは 才能や我慢とは別の次元で身体が反応する。おそらく、痛覚の感じる感覚を切り取りでもしない限り 消えはしないだろう。

 しかし、セリオに自分が苦しむ姿はなるべく見せたくない。血を流しているのを気付かれれば、 彼女はその目から血の涙を流す。

 しかし、逆説的に言えば、気付かれさえしなければ、彼女は血を流さない。浩之にとっては、 不幸中の幸いだ。

 それが、不幸でないとは言い切れないが。

 だからと言って帰らないわけにもいかなのだ。浩之は、できうる限り最大の覚悟を決めて、 自分の身体の感覚を再確認していた。

 身体は、よし、大丈夫だ。痛みはない。

 精神の方も、あかりと話をしていたおかげで、かなり回復している。

 まったく、どっちが病人なんだか……

 浩之は、そこで、もう一度だけ、感覚について考えた。

 どこも痛くはない、大丈夫だ。気分も落ち着いている。

 痛く……ない?

 

続く

 

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