作品選択に戻る

銀色の処女(シルバーメイデン)

87

 

 朝、それは内容は不平等でも、来るだけは生きている者全てに平等に訪れる。時間だけは、何が あっても平等なのだ。

 だが、内容までは平等とは限らない。何には最低の朝を迎えなければならない者も沢山いる。 その分幸せな朝を迎える者もいるだろうが。

 志保は、今まで生きてきた中で、おそらく最低の朝を迎えていた。そして、やっていることも 最低だと自覚していた。

 まだ学校が始まるまでにかなりの時間があるというのに、志保は起きていた。いや、起きている だけではない。制服に着替え、学校に向かう準備も終え、電車にゆられ、そして向かった場所は学校 ではなかった。

 目の前に、浩之の家が見えた。

「……何でこんなことろに来ちゃったんだろ」

 自問自答するが、志保はそれでも浩之の家から遠ざかることはなかった。ただ、玄関まで行って、 チャイムを押すまでの決心もつかなかった。

 何のために来たのかぐらいは、自分でも分かっている。

 ヒロに会うためだ。あかりのかわりに、ヒロと学校に行くためだ。あかりのかわりに、ヒロに 世話をするためだ。

 そう、あかりのかわりに。

 あかりが、ヒロのことを求めなかったから、いや、求めているのかもしれないが、それを あきらめたからだ。

 私は、あかりとは違う。あかりみたいに、ヒロが選ぶにまかせていられない。私は……

 志保には、あかりのかわりをするという、どこか曖昧な理由しかなかった。確かに、あかりに 宣戦布告としか取れないことを言ったが、それは決心してのことではない。あかりに無理やり引きずり 出されたような言葉だった。

 あかりはヒロをあきらめると言う。それならば、今まであかりがやってきたことは、全部あきらめ ずに手に入れようとする私の手にあるべきだ。

 志保の考えは、あかりに対するあてつけ程度のものだった。だが、それほどに志保にはあかりが 許せないのだ。

 そして許せないということは、同時に浩之をあきらめきれないということにもつながる。

 あかりという鎖がなければ、志保は自分の気持ちをうまく乗りこなせない。やってはいけないと 思っていることでも、言ってはいけないと思っている言葉さえも、やってしまうし、言ってしまう。

 それをまったく自覚がなかった志保は、あかりのあきらめるという言葉に、過剰に反応して しまったのだ。今まで自分を何とか制御してくれていた鎖が、ブツリと切れ、志保は自分を制御する 術をなくした。

 それでも、電話がかかってきたときに言わなかっただけましだろう。臆病な志保は、同時に 耐えることにさえ臆病であるのだから。

 昨日は突然のことと、あかりの言葉に同様し、さらに解放されてしまったことによって困惑して 直接的な行動には出なかったが、あのまま浩之の家に走りこんでも不思議ではないのだ。

 だが、今もまだ志保は迷っている。今度は時間が志保を冷静にさせていた。ここまで来てしまった 様子を見れば、完全に冷静になったわけでもなかったが。

 志保は、大きく深呼吸をした。

 今から、浩之を起こしに行くのだ。志保も緊張して当然だ。そして、聞かれるこことだろう。

「何でお前がこんなことろにいるんだ?」

 あかりなら、絶対に出て来ない言葉。しかし、これからは、それが普通になるのだ。例え、 それがあかりを悲しませることになっても……なっても……なっても私は……

 志保は、チャイムにまた手を伸ばしそこねた。志保は、完全にあかりを押しのけるという行為を 決心しているわけではないのだ。

 でも、私が行かないとヒロはあのよく分からないメイドロボ心をよせるかも知れない。それだけは 避けないと駄目だ。

 ほんと、あかりが素直にその役をかってくれれば……

 志保は、あかりに宣戦布告をすることもなかっただろうし、こんな危険な賭けに出ることも なかったし、浩之を手に入れることは一生できなかっただろうし、それでも仕方ないと思えていた、 と志保は自分では思っている。

 しかし、所詮自分を完全に把握し、完全に操ることなど、できはしないのだ。こんなことが なくても、未来まで志保がそう思っていられるかなど、誰にも分かるわけはない。人は変わるものだ し、男と女の関係ならなおさらだ。

 志保は、何度目かの決心をして、チャイムに手をかけようとした、そのときだった。

 浩之の家の前に、一台の車が止まる音がした。志保は驚いて、後ろを振り返る。

 そこには、一台の高級車が止まっていた。志保が驚いて固まったままでいると、後部座席の ドアが開き、一人の黒髪の女性が出てきた。

「あら、志保、おはよう」

 向こうも志保の姿を見て驚いているが、それ隠すように平静を装ってそう挨拶してきた。

「……おはよ、綾香」

 その突然現れた乱入者を、志保もある程度は知っていた。浩之の知り合いで、あの来栖川家の お嬢様。何度か一緒に遊びに行ったこともある、まあ友人と言ってもそんなにさしつかえはない相手 だ。だが、その綾香が今どうしてここに来ているのかはまったく理解できなかった。

 もっとも、それを言うと綾香の方も同じだった。

 毎朝あかりが起こしに来ることは綾香も何度も聞いていたが、志保が朝に迎えに来るというのは 聞いたことがなかったからだ。それに、少し遊んだだけだったが、志保が朝に人を迎えに行くような 性格には思えなかった。

 どちらも、どういう反応をしていいものか、迷っているようだった。志保は混乱しているので、 とりあえず綾香の出方を見て、綾香は綾香で志保がどうしてここにいるのか聞きたいが、それもどうか と思って言葉を止めている。

 2人が動きを止めたのは、挨拶が済んでからわずか30秒ほどだったが、まわりから見れば 異様な光景であったのは間違いない。早朝ということもあり、人通りがないのが唯一救いだといえる だろう。この状況に救いがあるとすれば、だが。

「……何でこんな朝早くに、こんなところいるの?」

 最初に聞いたのは、綾香だった。この天才は、何とか自分の理解不可能なものの中でも動くこと に成功したのだ。しかし、そう聞かれれば、志保はこう返すしかなかった。

「綾香も、何でこんなところいるのよ」

「私は……セリオを迎えに来たのよ」

「セリオって、あのメイドロボ?」

「そうよ」

「こんな時間に?」

「……そういう志保は、何でこんな時間にここにいるのよ」

「それは……」

 志保も、綾香と同じように一度言いよどんだが、綾香と違ってその後すぐに言葉を返すことは できなかった。

 自分でもそれを完全に理解しているわけではないので、当然とも取れるが、この態度で、志保が 少なくとも友人として来ているわけではなさそうなことを綾香は悟った。または、かなりせっぱつま った状況かだ。

 そう、志保はせっぱつまっていたのだ。あかりを裏切り、少なくとも志保は裏切ったと思って いる、浩之の家に浩之を迎えに行くほどに。

「私は……浩之を迎えに来たのよ」

 それだけ言うのが精一杯だった。もっとも、親切丁寧に綾香に理由を説明したところで、何か 事態が好転するわけでもないのだ。

 むしろ、事態は悪くなる一方に決まっているのだ。この状況は、逆転不可能な状態と言っていいの だから。

「急に何で?」

 綾香も、事態が悪くなることを理解してはいるが、聞かずにはおれないのだ。綾香も当事者の一人 なのだから聞かないわけにはいかない。

「悪いの?」

 志保は、そう言って話をごまかすしかできなかった。綾香と対抗できるほど頭がまわるわけでも 口がうまいわけでもないのだ。

「悪くないけど……聞かせてくれてもいいと思わない?」

 カチンと来る志保の言い方に、綾香は少し目を細めて言った。どちらも、自分が段々と窮地に おいやられているのを自覚しながらの対話だった。

「……」

 志保は黙って目をそらした。言える内容でも、ちゃんと説明できる内容でなかったので、志保には 黙る方法しかなかったのではあるが。

 しかし、いつまでもここで押し問答をしているわけにもいかないのだ。志保は、仕方なく、まだ 半分も決心していない言葉を言った。

「あかりの……かわりよ」

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む