銀色の処女(シルバーメイデン)
生きるということはままならないことだ。
浩之は、まださしてそう長くもない人生を振り返ってそう思ったことはなかったし、これからも思うことはないと思っていた。
しかし、生きることはままならないわけではないが、より悪い方向に進もうとする傾向があるのは、まぎれもない事実のようだった。
「……それ、ほんとか?」
『まだ確証は持てないから、精密検査ということになるだろうが、君の幼なじみだからね。まったく関係ないことはないと思う』
「そうか……なあ、あかりはまだ病院にいるのか?」
『一度帰らせたそうだが、明日も病院に来てもらうことになってるよ』
「……」
誰が悪い?
浩之は、あかりが『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかっているなんて、単なるデマだと信じたかった。しかし、それができない。
一番自分と近い場所にいるあかりだ。俺が鋼鉄病にかかれば、あかりだってその影響を受けないとは言いきれない。
「なあ、おっさん」
『何だね?』
「今まで、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』が他人にうつったって事例はあるのか?」
『患者が精神病になることによって、親御さんなどが苦労することはあるだろうが、少なくともそれが伝染したという報告はなされていない。もとより、精神病が感染するとも思えないがね』
「……わかった、また後で電話するわ」
『ああ、気を落とさないでくれよ。これでもしかすると鋼鉄病の対処法のヒントになるかも……』
カチャンッ
浩之は、長瀬の言葉を最後まで聞くことなく電話を切った。
誰が悪い?
浩之の頭の中は、混乱してまったく何も考えれなくなっていた。
「ヒロ、どうしたの? あかりの名前が出てたけど……あかりに何かあったの?」
部屋から顔を出していた志保が、心配そうな顔をしている。あかりと病院という言葉は聞こえたようだった。しかし、会話の真意まではつかめていないようだ。まあ、聞こえなかったことは、浩之にとっては幸いだった。
「ん、ああ、いや、別にあかりはあまり関係ないんだが」
浩之は、胸の痛みを我慢するのと同じほど努力して、その表情を作った。
「長瀬のおっさん……って志保はわからんか。セリオの生みの親の研究者のやつからの電話だっただけさ」
「それに何であかりの名前が出てくるのよ」
「病院で会ったんだと。あかりもなあ、もうちょっと風邪ひいてるなら自重して見舞いに来た志保を追い返すなりすりゃよかったのにな」
「あんたも行ったんでしょ」
志保は半眼になって睨むが、浩之はそれを飄々として流した。いや、言い返すほどの気力がなかったのだ。
「それで、あかりさんの病状はどうなのでしょうか?」
セリオが、まったく無表情だが、心配しているのか訊ねてくる。
「ああ、別に普通の風邪とかじゃないのか? すぐに病院からは帰ったようだしな」
セリオにも、どうも電話の声は聞こえていなかったようだ。もし会話の内容を聞かれていたとしたら、セリオが、ここまで冷静にというのもおかしいが、普通に話してはいないだろう。
「しかし、2日続けて風邪ってのも面倒なことだよな。ちょっとお前らの話は長引きそうだから、俺見舞いに行ってくるわ」
「ヒロ、あんたさっき私に見舞いになんて行ったからって言ったじゃない」
「ああ、俺はいいんだよ、俺は」
「どんな基準なのよ、それは!」
浩之は、志保の怒鳴り声をまるで聞かなかったように靴をはいた。
「んじゃセリオ、あかりの見舞いはそんなに長くならんと思うから、志保の相手が済んだら夕食でも作っといてくれ」
「わかりました、いってらっしゃいませ」
「ちょっと、ヒロ!」
浩之は、志保の存在を完全に無視して家から出ていった。
「……まったく、あいつがいないと話が進まないじゃない」
玄関をうらめしそうに志保は睨んだ。
「……この後の話は、浩之さんに言わなければいけないのでしょうか?」
「ん? ああ、そうじゃなくってね。私の個人の考えの意見を聞きたかったのよ。まったく、話の当の本人が消えてどーすんのよ」
志保はぶつくさ言いながら、部屋に戻って、ドカッと椅子に座る。
「まあ、いいや。ちょっとセリオに先に聞いてもらっとくわ」
「はい、何でしょうか?」
「さっきの話なんだけど……ヒロが『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』ってやつにかかってるって話だけど」
「……はい」
あきらかにさっき浩之と話しているときとは違い、セリオが緊張する。表情には変化はないが、志保にはよくわかる。
「あれ、ヒロが考えたっていう理論じゃ、変なことがあると思うのよね」
「はい」
返事はしているが、志保が何を変に思っているのか、セリオにはいまいち良くわかっていないようだ。
でもまあ、人のためになることが存在意義なら、わかるわけはないんだけど……
人間だって、自分と異なる考えを持つ相手のことを客観的に理解しようとするのは難しいのだ。メイドロボにできなくても、おかしなことではない。
「私が思うに、ヒロって、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかってないんじゃない?」
浩之は走っていた。
あかりの家までは、そんなに距離はない。だが、そんなことは関係なく一分一秒でも早くあかりに会わなくてはと浩之は思っていた。
その後どうするかなど、少しも考えていない。
ただ、心の赴くまま、いや、心が大声で訴えるままに動いているのだ。
誰が悪い?
あかりが鋼鉄病にかかっていたとしたら、それが誰のせいなのだ。
やはり俺のせいか?
それとも、あかりのせいか?
でなければ、おそらく鋼鉄病の要因であるだろう、セリオのせいか?
どうしてあかりが、という考えは、すっぱりと浩之の中では切り捨てられていた。それを考えれば、もしかしたら鋼鉄病の解決策を見出すことができるかもしれないとしても、今の浩之にはそんな甘言は入ってこない。
何であかりが。
俺なら、俺自身なら、どうやっても耐えれるのに。
胸の鋭い痛みは、徐々に浩之を蝕むだろうが、それも、まだ長い間耐えれる苦しみだ。それは自分のことなのだから、例えいくら苦しんでも、何とかするつもりでいた。
しかし、予想だにしなかったのだ。
セリオが自分の胸の痛みを知れば、苦しむ。だったら隠していようと思った。それは全てを共有することが正しいとも思わなかったわけでもないが、真実を言ってセリオを苦しめれば、また自分も苦しくなり、相乗効果となって浩之を襲うことは目に見えていたのだ。
浩之はセリオとは、メイドロボとは違う。人を幸せにすることが存在意義ではない。
が、人が苦しむことを見ることは、自分が苦しくなるのだ。
それが、よりにもよってあかりだとは……
あかりの家にメイドロボはいない。そして、近くにメイドロボがいるという話もまったく聞いたことがない。
考えられる要因は、セリオしかいないのだ。
くそっ、何であかりが……どうしてあかりが鋼鉄病にならなくちゃいけないんだ!
誰が悪い?
誰も悪くない。誰もが、ただ苦しみから逃れようとしただけ。そして、誰一人として逃げもしなかった。
そう、誰のせいでもない。
誰の……俺の、せいでもない!
俺にできることが一つもない!
「くそったれ!」
浩之は、歯軋りをしながら、小さく、しかし鋭くつぶやいた。
俺のせいなら、俺に何かできるはずなのに!
俺のせいでさえないから、俺は何一つできることが思いつかない。
ただ、今はあかりに会うしかないのだ。もしかしたら、単なる誤診かもしれない。俺が見て分かるわけはないと思うが、もう長い付き合いだ。どこかおかしいなら、気がついても不思議じゃない。
しかし、浩之には、その希望的観念に身をまかせることができなかった。
そう、事態は、今までも全て悪い方向にしか動いていないのだ。
たった一つのことを除いては。
続く