銀色の処女(シルバーメイデン)
浩之の言った単語は、あかりは一度も聞いたことのない言葉だった。
「アイアン……?」
「『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』だ」
浩之の言った言葉に、やはりあかりは記憶がなかったか。さして病名などに詳しいわけでもないので、そういう病気があっても自分には分からないだろうなとあかりは思って納得した。
「それで、それってどんな病気なの?」
仰々しい名前に、あかりは少し不安を感じないわけでもなかったが、症状を聞くのに、あまり勇気を必要とはしなかった。
きっと、自分が不治の病だというのを感じながら聞いたとしても、今の状況なら自分はさして恐怖を感じなかっただろうとあかりは思った。
だって、目の前の浩之ちゃんが、本当に魅力的に見えるから。
ここ数日は、自分も含めてだけど、変だった浩之ちゃんが、いつもの浩之ちゃんになってるから。ううん、もっと魅力的に私には見える。
これでこそ、自分が全てを捧げてもいいと思った男の子。
あかりはもう見飽きるほど見たがまったく見飽きることのないその浩之の顔がかっこいいとは思っているが、それよりも何よりも、浩之からにじみ出る内面のかっこよさに目を細めた。
「……あかり、何でうれしそうなんだよ」
あきれた風に、浩之が言ってきたので、あかりはくすくすと笑った。
「ううん、何でもないよ浩之ちゃん」
この状況が、あかりにはたまらなく嬉しかった。きっとすごく重要な話なのだということが分かっていても、つい顔が緩んでしまうぐらい。
だいたい、浩之ちゃんも全然深刻そうな顔してないし。
真面目な顔ではあるのだが、いつものやる気なさげな表情を捨てておらず、そして、いつもの優しげなその瞳を持ったままで、その表情は、あかりを緊張させこそすれ、喜ばせないわけがないのだ。
「まったく、こっちは真剣なんだぜ。ちゃんと顔を引き締めて聞けよ」
浩之はそう苦笑した。いつもの苦笑の仕方で、まったく表情は引き締まっていない。
「そういう浩之ちゃんだって、全然真剣そうな顔してないよ」
「俺はいつも真剣だぜ」
そう言って浩之はおどけてみせた。その姿がふざけているとは、あかりは少しも思わなかった。むしろ、それこそが浩之の本気なのだ。
「いいから、真面目な顔して聞け。『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』ってのは、メイドロボを……」
と、そこで浩之は少し言いよどんだ。メイドロボを愛したものに起こる症状なのだが、それにあかりがあてはまっていないのは火を見るよりも明らかだった。
「うーん、どういやいいんだ? お前が今までの事例とは違う例外っぽいみたいだからな」
「よく分からないよ、浩之ちゃん」
「ん? ああ、一応、俺が知ってる事例で説明するぞ。『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』は、メイドロボを愛した人間に起こる精神病だ」
浩之は我ながらよくもまあこんな突拍子もないことをあかりに話しているなと思ったが、あかりは何故かまったく気にしている様子はなかった。
「お前には言ってなかったけどな、俺、セリオとつきあってるんだ」
「うん」
そして、重要なことは、突然言われたのにも関わらず、あかりは少しも動じた様子はなかった。
「……」
「どうかした、浩之ちゃん?」
「いや、驚かないんだなと思ってな」
「まあ、驚いてないわけじゃないけど、だいたい分かってたし」
それが一時的なものか、長期的なものかは別にして、浩之の関心がセリオに向いていたのはあかりもよく分かっていた。その結果、セリオを浩之が選んだとしても、ある意味仕方のないことなのだ。それでこそ浩之ちゃんだと思うほどだ。
そして、浩之が誰かを助けるため、つまり、「自分のために」人のために動いているその姿が、一番かっこいいのだ。何故ほれているあかりに止めれようか。
だから、覚悟はもう終わっているのだ。くやしくないことはないし、残念にも思うが、それをかき消してしまうほど、浩之はあかりには魅力的に見えてしまうのだ。
志保に言われるまでもないのだ。いや、志保に言われたからこそ、余計に決心がついたのかも知れない。例え人にどう言われようとも、あかりは最後まで浩之の味方であり、理解者であろうと決心しているのだ。
たかが……たかが、恋愛どうこうでそれを捨ててしまうには、浩之ちゃんはかっこ良すぎる。
「浩之ちゃん優しいから、今まで助けた女の子とくっつくことだってあると思ってたもん」
「だから、人を優しいとか言うな。むしずが走る」
そう言って浩之はびしっとあかりの頭につっこみを入れた。
「いたっ」
「まったく、俺としてはけっこう決心がいったんだぜ、お前に言うのは」
浩之は、自信過剰かもと自分で思いながらも、あかりが好きなのは自分ではないかと心の端で思っていた。確かに長い付き合いで、まるで兄妹みたいな関係ではあったし、それを疑いもしなかったが、ごくたまにそう思うことだってあった。
だが、そんな気配はあかりからは微塵も感じられず、浩之は少し残念だったような、ほっとしたような微妙な気持ちを抱いていた。
「でも、浩之ちゃんが言うから間違いはないと思うけど、そんなことで病気になるの?」
「なる。実際、長瀬のおっさんの話にも出てきた」
しかし、自分に起こっている症状まで言ってしまっていいものかと、浩之は少し悩んだ。まだセリオにも言っていないのに、あかりに言うのはどうかと思われたのだ。
もちろん、浩之には最後のギリギリになるまで、そのことをセリオに話す気はなかったが。
「結局、どんな症状なの?」
「一応、精神病っぽいものらしい。症状は色々だから、俺も詳しいことは知らん」
そう言えば、本当の詳しいところはまったく長瀬からは聞いていないことに気がついた。詳しい症状を言わなかったところを見ると、症状の状態が多すぎて、把握しきれていないのかも知れない。確かに、今の浩之を襲っている胸の痛みについては、話で一回もふれたことがなかった。
もしかすると、言えないほどひどい症状が出るってことか?
多いにありうる話だ。そうなると、自分はいいとしても、あかりが問題となってくる。
「まあ、普通に体調不良になったり、情緒不安定、不眠症とか軽い症状から、幼児後退などの重度の精神病まであるってセリオからは聞いたけどな……俺の症状は違うしな」
「違うって、浩之ちゃんもかかってるの?」
「それらしいのにはな。おっさんの話には俺に起こってるような胸の痛みはなかったんだがな」
あかりも、浩之がそんな病気にかかっているとなると話が違ってくる。あかりにとっては、自分の身より浩之の身の方が心配なのだ。
「大丈夫なの、浩之ちゃん?」
「今はな。とりあえず、恥ずかしい話だが、セリオに近づいたり、セリオのことを考えない限りはどうも平気みたいだ」
浩之としては、自分を責めたくもなる。愛していると言ったわりに、浩之は結果的にセリオを避けるように行動しているのだ。
「でも、なんでそんな病気に?」
お風呂に入った後にいつまでも裸でいれば、冷えて風邪をひく。そういう簡単な理論ならともかく、今回は何故そんな精神病になるのか、あかりにはさっぱり分からない。自分はともかく、愛する者がかかっているのだ。納得する理由を教えてもらわないと、あかりとて引き下がれない。
「俺は、精神病かかる理由が、メイドロボを人間が対等、またはそれ以上に見ようとして感じる劣等感から来てると思っている」
「劣等感……」
「メイドロボは、人間よりも優れてると俺は思うんだ。だが、人間には本能的にそれを認められないんだろう。かく言う俺も、言葉では言っているが、どうもメイドロボを低く見ようとしてるんだろうな。それは、人間だから避けれないことだと俺は思ってる」
実際、胸の痛みに苛まれるまで、浩之も心の端ではそんなことはないのではないかと思っていたのだが、自分がなってみて分かる。何故なら、胸の痛みは、セリオに関係したときでした出てこないのだ。あきらかに要因としてセリオがいる状態では、浩之も信じるしかなかった。
「メイドロボ達は悪くない。悪いのは、メイドロボを対等と見れない人間だ。まあ、そう言ったところで、俺も人間だからな。避けようがなかったみたいだ」
しかし、浩之はやはり後悔はしていなかった。だいたい、病気になるからはい分かりましたと言ってセリオをあきらめるほど、浩之の心は聞き分けが良くない。
「でも、精神病だったら、治療するぐらいできないの?」
昔ならともかく、今ならある程度の精神病の治療の仕方もあるはずだとあかりには思えた。
「長瀬のおっさんの話によると、今まで無理だったそうだ。だいたい、症状はともかく、要因は今まであったとは思えないからな。普通の精神病と同じに考えるのは間違っているんだろうな」
そう、いくら考えても、その胸の痛みはおかしかった。
「精神病ってのはおかしなもんだと俺も思うぜ。俺は、胸が痛いんだからな」
そう、恋焦がれているわけでもないのに、そして、そんな生易しいものでもないのに。
浩之の胸は、今は痛まなかった。
今は、あかりを助けることだけに集中できているからだろうか? それとも……
「とにかく、俺が来たのは、あかり、お前が『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかっているかもしれないからだ」
「私が?」
あかりには、その必然性が少しも分からなかった。
続く