銀色の処女(シルバーメイデン)
浩之にも、志保の言いたいことはわかる。
「……つまり、俺には『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかる理由がないってわけか?」
「そうよ、だから、ヒロは『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかってなんかいない」
浩之本人には、誰のために、という言葉はあまり考えるほどのことでもなかったのだが、今はそれがあることによって浮き彫りにされていた。でなければ、志保の言っていることの半分も理解できなかったかもしれない。
誰のためでもない、俺のために助ける。
あかりを助けようと考えたからこそ、あそこで胸の痛みに襲われたからこそ、浩之はそれを自覚できる。もし、それがなければ、今でも自分にだまされていたままだったかもしれない。
「……かもな」
いいことではない。つまり、浩之はほんの少しも、まったくこれっぽっちもメイドロボを対等に見ようとなど考えていなかったのだ。いや、認めようとさえしなかったのだ。
結局、何がいいことなんてわからないんだな。
それが例えどんなに悪いことでも、セリオのことを考えていなくても、浩之の考えは変わらないのだ。
どこか、自分を責める自分がいるのがわかる。きっと、セリオを好きな俺だろう。だが、俺はそれを無視してしまう。
もっと大きなものが、俺の中で暴れるのだから、俺はそれに従う。
いや、俺はそれを選ぶ。
「そうさ、俺はセリオを、メイドロボを対等に見ようなんか少しも考えてないんだ」
「浩之さん……」
「ヒロ……」
その言葉は、自分を責める意味を持っていたはずだ。だが、浩之の表情は、少しも自虐の笑みを浮かべていなかった。
それは、いつものやる気のない表情。いや、それは、むしろあかりや志保にとって見れば、無敵の、そして全力の表情だったのかもしれない。
セリオは途惑う。それは、セリオを助けようとした、セリオと一緒にいることを望んだ浩之とは異なる姿だったから?
志保は途惑う。それは、志保の知っている浩之でありながら、志保の知っている浩之は、それを意識さえしないはずだ。
「だけど、俺はセリオを助ける。あかりも助ける。俺のために、俺は助ける」
セリオは、それだけで苦しくなる。それは、人のために、自分の全てをかけれるメイドロボだからこそ、その胸は痛むのだ。
それをわかっても、浩之にも止めようがない。浩之は、言った通り、自分のために動いているのだ。その動きには、ほんの少しも矛盾はない。
「だけど、もし俺の胸の痛みが『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』のせじゃないなら、一体何のせいなんだろうなあ?」
罪深いというだけなら、この世に胸の痛みを持たない者はいないだろう。それほど、人は他人を考えて生きていないのだ。
しかし、気のせいなどと言えるほど甘い痛みではなかった。浩之は今まで生きてきて、あれほどの痛みを感じたことはなかった。
浩之にとっては、あの胸の痛みは理解不能だったのだ。だから、やはり理解に苦しむ『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』のせいだと思った。というよりも、理由はそれしかなかったし、そうでない理由もなかった。
「セリオ、前の俺の体の精密検査のときは心臓病のたぐいの診断結果が出てきたか?」
「いえ、浩之さんは精密検査を受けたのですか?」
セリオは、浩之から目線を外さぬに、いつもの無表情で答えた。
「……いいんだ、セリオ。お前は気付かないふりをしてるかも知れないけどさ。長瀬のおっさんがセリオに精密検査の結果を教えないわけがないんだからな」
今まで、浩之はきっとセリオは知っているだろうとは思っても、それに気付かないふりをしていた。それが一番いいと思っていたし、わざわざセリオを苦しめる必要はないと思っていたのだ。
今は、セリオを苦しめるつもり?
そう、浩之は苦しめるつもりだった。それがちゃんとした目的のためであり、その結果を出せると思えば、どんな無茶をすることもいとわないと浩之は決意したのだ。
いや、決意する必要さえない。ひどい話だが、浩之はそれを今は自然にできる。
これだけでもわかる。浩之が、人のために動いているわけではないことが。
「ほんとは、このまま気付かないふりをしてやるのが優しいんだろうけどな。俺はあえて辛い道を通らせてもらうぜ。セリオ、俺の精密検査の診断結果の中に、心臓病や、それに類する病気があったか?」
「……」
セリオは、黙った。セリオは嘘をつくことをいとわない。それはメイドロボにとって、「人のためになる」という行為を行うために、必要ならばだ。それならば、セリオは苦楽を無視して嘘を突き通せる。しかし、セリオの判断は、ここで嘘をつくことに関しては「ノー」だった。
「浩之さんの診断結果の中に、心臓病、またはそれに類する病気の発症はありませんでした。また……また、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』の今までの症状の中に、胸に痛みがあるとうったえる例はありません」
それは、本当はセリオにとって喜ぶべきことなのだ。もしかしたら、自分が人を苦しめていないかもしれないのだから。
「ということは、セリオも、この胸の痛みを『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』の症状じゃないと思うのか?」
「……私は、そう思います。ですが、反対に、それ以外の理由が思いつきません」
セリオは、今は不安定な位置に立っているのだ。
彼女にとって一番苦しいこと。それは、人の役に立てないこと。自分が、人を傷つけてしまうこと。人間のために動くことができないこと。
今は、確かにセリオは人間のために動けない。すでに愛と、メイドロボの生きる意味にガチガチに固められて、まったく身動きは取れない。
だが、それこそ身が削られるほど辛いこと、人が自分のせいで傷つけられているのかは、判別がつかないのだ。
浩之が胸に痛みを感じているのは、確かに本当のことなのだろうが、残念ながら、セリオにはそれが本当に鋼鉄病のせいなのかということが判別できない。理由はそれぐらいしか思いつかないが、その理由ではおかしいと思うのも確かだ。
浩之の話す通りに、あかりが鋼鉄病にかかっていたなら、それは苦しいことだ。それが浩之でないからと言って、許せるほどセリオの気持ちは徹底しているわけではない。
だが、それも浩之がそう思っているだけかもしれないし、極端な話だが、長瀬の勘違いということもある。何故なら、あかりにはセリオはほとんど関わっていないのだ。
セリオは、あくまで状況を的確に判断して、最善の手を取るようにプログラムされている。その善悪は最終的に人間にまかせるが、それまでの手は色々考えるのだ。
だが、今はその最善手というより、解決するべき目標さえはっきりと見えて来ない。こうなると、セリオは弱かった。
だから、セリオは苦しんでいたし、何とかしようとずっと思っているのだが、何もできずにさっきから何も言えず、浩之の質問に答えるしかできないのだ。この状況も、セリオから見ればひどく苦しい状況でもある。セリオには今何もできないのだから。
「理由か、そうだよなあ。確かに、俺の胸が痛むときは、セリオのことを考えたときだけだしなあ。しかも、セリオのことを好きだとか、そういうときばっかだしなあ」
好き?
志保は少し嫌そうな顔をしていたし、セリオはセリオで、その浩之の胸の痛みがあることが苦しいのだろう、無表情の中に悲痛の顔が見て取れる。
だが、残念ながら、浩之にはどちらの表情も入ってこなかった。
好き?
どこか、のどの奥でひっかかるものを浩之は感じたのだ。例えば、それがチョコレートのように甘いと思いながら口にしたのに、アンコの甘さがしたような。質が同じなのに、どこか違和感を感じる味だ。
間違いない、今でも、俺はセリオのことが好きだと思う。それに変化はない。
……
しかし、胸の痛みは襲ってこなかった。本当に、少しも。チクリともしない胸を押さえて、浩之は、やはりおかしなその状況に頭をめぐらしていた。
「浩之さん、もしかして、胸が痛いのですか?」
セリオが、自分の横で、無表情なのに、悲痛の表情をうかべて自分の身を案じている。
悪くない、実にいい女だと思う。でも……
今の浩之の胸には、一人の幼なじみがいた。そして、彼女がまるで浩之を守っているように、胸の痛みは襲ってこない。
それは、セリオが守ってくれているのでは、決してない。
セリオのことが好きだ。それに異存はないし、俺はそういう風に動いてきた。それなのに、俺はまるでそれまでの行動を否定するように、あかりに頼っている。
「セリオ、好きだぜ」
「……はい」
真顔になってそう言うと、セリオはどこか悲しそうにその言葉に答えた。それもそうだろう、その言葉は、セリオにとって、メイドロボにとって一番苦しいことへの道を進ませるだけなのだから。むしろ、それを我慢して、浩之につてい来ようとしているセリオは、恐ろしく無茶をしているとさえ考えられる。
セリオを苦しめてでも、浩之はセリオをそばに置きたいと今でも思っている。あの、セリオを失うと思ったときの苦しみは、愛以外に説明のしようのないものだし、何より、浩之はそれを恋や愛だと思わなくとも、セリオと一緒にいたかった。
だけど、それでも、セリオに愛のセリフを吐いても、胸は痛むことがなかった。
好き……か。
「セリオ、教えてくれ。セリオの知っている知識では、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』は突発的なものか?」
「……症状は、突然来るとは思いますが、慢性的なものであり、それから逃れる術はないと思います。一瞬の苦痛には、人間の方は思うよりも耐えれるようですが、鋼鉄病はいついかなるときでも、ずっと患者を苦しめます。真綿で締められる痛み、長瀬主任はそう評していました」
「ありがとう、セリオ」
「いえ、聞かれた情報を正確に教えるのは当然のことです」
セリオは、浩之の言葉を、鋼鉄病について口にしなければならないセリオの苦しみに謝罪の意を表して「ありがとう」と口にしたと思ったのだろうか?
浩之は、セリオに少しも負い目はなかった。ただ単純に、感謝しただけだ。
そう、セリオから情報を得れば得るほど、浩之はさっきまでの味の意味をわかり出していた。
俺は、メイドロボを認めていないと思う。むしろ、その努力さえしようとしなかったのかも知れない。
だが、もし、俺がメイドロボを認めようとして、それに失敗していただけなら、それはそれでおかしくないか?
突然襲う胸の痛み、真綿で締めつけられる痛み。
メイドロボを認めようと思わない俺、メイドロボを認めようとする俺。
劣等感なんて感じない考えの差、劣等感を抱くほどの考えの差。
セリオが好きだ、セリオが好きだ。
全ての条件が、そう、セリオを好きなことさえ、真っ向から対立していた。
条件に合っているなどとは、少しも思えない。むしろ、これでこの胸の痛みが『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』のせいなら、おかしいとさえ思えるほどの条件の違い。
そう、好きだ。
それがキーワード、そこがおそらく、浩之を苦しめていたものの正体。
まだ、その怪物は岩陰に身を隠している。だが、浩之は影をつかんだ。
なら十分、それだけでも、目的のためには十分の手がかり。
存在があるのなら、俺は、どんな手を使ってでもそれを引きずり出してやる。
「そうだな、これはきっと、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』のせいなんかじゃない。もっと、他のもんだ」
続く