銀色の処女(シルバーメイデン)
ひかりは、いくらか落ち着いて浩之があかりの部屋から下りてくるのを待っていた。
確かにひかりは並の母親ではなかったので、多少のことでは取り乱さなかったが、今回ばかりはかなり心配だったのだ。
ただの風邪かと思っていたあかりの病状が、今朝にはもっと悪くなっていたのだ。いくらひかりと言えども心配になって当然だった。
ひかりはあかりを病院につれていこうと思ったが、それをあかりが拒否したのだ。
怒ってでもあかりを病院につれていこうとしたのだが、あかりはテコでも動きそうになかった。普通の親なら、それでもあかりを病院につれていくのだろうが、ひかりにはそれができなかった。
浩之ちゃんがどうにかしてくれるから。
そう言われたら、ひかりは引き下がるしかなかった。あかりにとって、それが何よりも信頼するものであるし、ひかりだって浩之のことは信頼しているのだ。
そして、今浩之は、何故かすごくひきこまれそうなほど魅力的な表情でひかりに挨拶をしてあかりの部屋に上がっていったのだ。
心配は心配だけど……あの浩之ちゃんにまかせとけば大丈夫でしょう。
それに今日の浩之ちゃんと言ったら、あかりに告白するのではと思えるほどの勢いがあった。となると、母親としては我慢してあげるのが筋よね。
普通の母親ならそんなことは思わないのだろうが、相手はひかりである。
しかし、自分が何も特別というわけでもない、とひかり自身は思っていた。たまたま、自分が昔から浩之ちゃんを見る機会があっただけだ、と思っているのだ。
それほに、浩之ちゃんはいい子で、そして、かっこいい。
あの浩之ちゃんを手に入れるためなら、あかりにも病気の一個や二つぐらい耐えてもらっても惜しくない。それほどの相手だ。
でも……上ではうまく行ってるかしら?
確かに、今日の浩之ちゃんは、昔あかりをつれて遅くに帰ってきたあのとき以上の表情はしていたけど、それでも、あかりを選ぶかどうかは別の話なのよね。
あかりがどれほどいい子かを、育てたひかりはよく知っているし、結婚する相手としては申し分ないことも理解している。
それでも、浩之があかりを選ぶかどうかは難しい話だった。いくらあかりが魅力的でも、言ってしまうと、あかりでは浩之とつりあわないのだ。
ま、ここは、あそこまで浩之ちゃんを育てたあかりを信頼するしかないけれどね。
多少のズルや既成事実ぐらいは母親として許すので、何が何でもあかりには浩之ちゃんを手にいれて欲しいところだけれど、あかりは押しが弱いから……
反対に、浩之に求められれば、断ることはできないので、既成事実は作りやすそうなので、ひかりとしては少し安心もする。
ひどい親ではあるが、それがあかりのためだということも十分承知しているのだ。
……でも、浩之ちゃんが来たから、病気の方は心配することないわよね。
あかりに何があったのか知らないが、自分の娘が、熱や頭痛にうなされて判断を誤るとはひかりは思っていない。確かに押しは弱いし、優しい子ではあるが、それは意思の弱さとつながるものではない。むしろ、あの年頃の女の子と比べると、はるかに強い意思を持っているはずだ。
いつもはわからないが、はっきり言ってあかりは浩之とひかり以外に弱点を持たない。温和な性格なので誰かとぶつかることもないだろうが、もしそういうことがあっても、驚くほど心を乱さないだろう。
これも、浩之ちゃんに色々ちょっかいを出されたからなんだけどね。
二人は、二人でいるからこそ、一緒に育ってきたのだ。母親のひかりにはわかる。二人とも、もうひかりの手助けなど必要ないほどに育っているのだ。
嬉しいような、少しさびしいような、でも、やっぱり嬉しいのだろう、とひかりは思う。子供が成長していくことを嫌がる親などいるものか。
でも、望めるなら、ずっと、自分の子供は自分の子供であって欲しいものなのだ。あかりはそうでも、浩之は、もう養子になるかあかりと結婚でもしない限り、離れていくしかないので、ひかりは心残りで仕方ないのだ。
いっそのこと、あかり、浩之ちゃんを押し倒したりしないかしら。
滅茶苦茶なことをひかりは思いながらじっと耳をすませたりする。それらしい音は聞こえてこない。聞こえてきたら、ついつい大喜びで声をあげてしまいそうだが。
せめて、後1時間ほど浩之ちゃんが出てこなかったね、少しは期待もできるんだろうけど……
そんなことを考えていると、ガチャッと扉の開く小さな音が聞こえた。
あかり、浩之ちゃんを帰すのが早いわよ。
病人の娘をつかまえて酷い言いようだが、ひかりにしてみれば当然の話だ。せっかく病気だからと言って浩之があかりの部屋を訪ねてきてくれているのだから、もうちょっと我が娘ながら粘れないものかと不平も出てくる。
トントンと軽い足取りで、おそらく浩之が階段を下りてくる。
「あら、浩之ちゃん。もうお帰り?」
ひかりはキッチンから出て、あかりの部屋から下りてきた浩之に話しかけた。
「あ、おばさん。ええ、あかりの様子も落ち着いたようなんで、もうおいとましようかと」
いつからだろう、浩之ちゃんが私に敬語を使うようになったのは?
しかし、浩之にしてみれば、この世界で少ない「苦手な相手」なのだから、敬語も使おうというものなのだが、ひかりにはその自覚がなかったりする。
「落ち着いたって、浩之ちゃん、あかりに何かしてくれたの?」
「まあ、そう言われれば確かに何かしたことにはなりますけど……」
「ありがとね、浩之ちゃん。私もあかりの様子がおかしいから、心配で仕方なかったのよ」
その言葉に嘘はない。もっとも、あかりほどではないものの、ひかりも浩之を信頼しているので、もうあまり心配してはいない。
あかりのは、信頼というよりは、盲信だものね。
あながちあかりの行為は間違ってはいないと思うものの、ひかりにはあそこまでは浩之を信じる、それはもう無茶でも何でも信じることはできない。
私も、歳を取ったってことかしら?
昔、自分が若かったころは、あんなに誰かを信じれたかどうかは疑問だが、歳を取ってそれがさらに難しくなったのは間違いなかった。
ひかりのお礼の言葉に、浩之は少してれる。
「いや、まあ、俺のせいでああなったと言えないこともないですから……」
「あら、だったら、責任取ってもらおうかしら?」
ひかりはくすくすと笑って言った。ひかりには別にそれが浩之のせいであろうとも知ったことではないのだ。それをあかりが納得した上で、しかも浩之に救われるなら、自分の娘は喜んで自分の身を危険にさらすだろうことと、そしてあかりが望む以上、自分もそれを許そうと。
「あの、強制労働とかですか?」
「そんなこと言わないわよ。もう浩之ちゃんも昔から比べればずいぶん大人になったんだし。とりあえず、あかりをもらってくれれば、それでいいわよ」
「あ、はい。わかりました」
「……」
「……」
「……」
二人の間に流れる、何とも言えない沈黙に、浩之は恐る恐る聞いた。
「……あの、俺何か変なこといいました?」
「浩之ちゃん、おばさん、嘘はいけないと思うわよ」
「嘘って、何か俺、嘘つきましたか?」
「……」
ひかりは、いつもからは信じられないようなじと目で浩之を観察する。浩之はその姿に、まるで蛇ににらまれた蛙のように動きを止めていた。
「冗談でもすまさないわよ、おばさん、聞いたからね?」
「あの、だから何を?」
「じゃあ、あかりは近日中に浩之ちゃんの家にのしつけて送るから。後は何をしても私は許すわよ。あかりと、浩之ちゃんの問題ですもの」
「……あ」
浩之は、やっと自分が口をすべらせたのを理解した。
「いや、これは、口がすべったというか何というか。嘘ってわけでもないんですけど、何かほっとくとそのまま話が進んでしまいそうなので、ここでは冗談ということにしておいてもらえるとうれしいのですが」
いつもより5割増しで敬語になっている浩之をみて、ひかりは、ちゃんと理解した。
「つまり、浩之ちゃんは本気なのね」
「……はい、そうです」
浩之は、観念したように言った。ひかりのことだから、まさか「こんな男に娘をやれるか」と言ってなぐりかかってくるようなことはないが、それにしたって、一応は女の子の子供を持つ母親だ。どういう反応をするかは浩之にも予想できない。
「今はまだあかりから返答をもらっただけなんで、これから先は何とも言えないですが」
「何だ、ちゃんと浩之ちゃんから言ってくれたの?」
「え、ええ、まあ……」
「あかりが断るわけないものねえ。じゃあ、お父さんには私から話しておくから、心配しなくていいわよ。大丈夫、浩之ちゃんのこと、うちのお父さんも気にいってるから。あかりと浩之ちゃんが結婚したら嬉しいって話、何回お父さんから聞いたことか」
特に最近、浩之の姿をあまり見なくなって、その言葉は多くなってきている。あかりの父親にとっても、浩之は子供のようなものなのだから。
「あの、できればもう少しの間は内緒でお願いできないものかと……」
段々言葉が小さくなってきているのは、ひかりのことを苦手としている浩之の素直な感情だ。温和ではあるが、ひかりはあかりよりも何倍もたちが悪いのだ。
「仕方ないわね。これ以上浩之ちゃんをいじめると、後からあかりに怒られるから、これぐらいにしとくわね。じゃあ、浩之ちゃん、あかりのこと、よろしくお願いね」
「……はい」
最後の、そのやる気ないような、それでいてすごく自信に満ちた表情での一言で、ひかりは満足した。
自分が後10年若ければ、という言葉は、とりあえず後からあかりをからかうときに使おうと思って取っておくことにした。
続く