銀色の処女(シルバーメイデン)
「いや、そのかわり、問題がもう二つ起こった。俺の胸の痛みと、あかりの『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』だ」
「胸の痛み?」
それは、長瀬にも綾香にも初めて聞く内容だった。
「綾香には言う機会がなかったな、そういや。まあ、長瀬のおっさんにはうっかりしゃべると、すぐにセリオに伝わりそうで、避けたってところもあるけどな」
「藤田君、そういうことをされると困るのだが。君は、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』に対する大きなヒントを隠している可能性もあったんだよ」
長瀬は、研究者の立場から、セリオの、メイドロボのためになることを模索していたのだ。綾香のように、優れた権力に援助を得るなど、いくら世界でも有数の研究者でも難しい。それならば、自分のもっとも得意とする土俵で戦うのは当然のこと。
そのためなら、いかなる小さな情報も逃すわけにはいかないのだ。
「いや、俺もてっきり、普通の鋼鉄病かと思ってさ。確かにセリオからもおっさんからも、胸が痛くなるなんて症状聞いたこともなかったけど、ないとも言わなかったろ?」
「それにしたって、自覚症状があるのなら、はっきりと報告すべきだ。それで打てる手もあるんだからね」
しかし、浩之はそう言われたところで、あのとき長瀬に言うわけにはいかなかった。
「もし、俺に自覚症状があるなんておっさんに言ったら、おっさんは迷わずセリオにそれを教えてたろ。俺の報告結果だって、セリオに教えていたはずだ」
「……」
長瀬には、悪気はない。当然だ、情報は多くの者が共有するからこそ真価を発揮するものだ。例えば、渦中にあるセリオなどに。それを知っていれば、もしかしたら何かに気がつくかも知れないし、何かいい手が見つかるかも知れない。
それは、確かにセリオが苦しむ方法。しかし、長瀬はそれでも最終的にセリオが幸せになればいいと思っていた。だから浩之の情報はできる限りセリオにまわしていたし、セリオも、その有効性を知っているから、それを拒むことはなかった。
だが、あのときの浩之は、それこそが、最終的なセリオの不幸だと思っていた。
「俺は、あのときセリオに胸の痛みを知られちゃいけないと思った。酷い痛みだったんだぜ、何せその痛みに襲われたら、歩くのもやっとだったからな」
今まで感じたことのないような質の痛みだ。浩之も忘れるわけがない。
「もし、セリオが俺の胸の痛みのことを知ったら、余計に苦しむだろ。だから、俺はそれを秘密にしておいた。何、簡単だと思ったんだぜ、やせ我慢すればいいだけなんだから」
それは嘘だ。浩之は、あのとき自分がそう長い間、セリオに気取られないように過ごすことが不可能だと感じている。それほどの激痛だったのだ。
だが、浩之はのど元を過ぎた痛みに対しては、恐怖を感じなかったのだ。終わってしまえば、どんな苦しいことも、さして怖くない。
「だから、俺は我慢した。『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』のせいなら、長い間耐えないといけないが、とりあえず我慢できるときまでは我慢して、セリオに隠しておいた方がいいと思ったんだよ。どうせ、我慢しようとしまいと、胸の痛みに変化はないだろ?」
そんな簡単な痛みではないのだが、だからこそ浩之が我慢していたのだ。痛みが大きければ大きいほど、セリオの苦しみも増えるのだから。
「俺はずっと黙ってるつもりだったんだけどな、状況が変わっちまった」
一人の痛みなら、浩之は愚かにもそれを我慢してしまっていたろう。それだけの能力が、まだ本気ではない浩之にはあったのだから。
「結局、俺が我慢したのは、あかりが鋼鉄病にかかってるって知るまでの、ほんのわずかな間だったけどな」
「は? 何であかりが鋼鉄病にかかるのよ?」
綾香は浩之の言葉に、首をかしげた。
『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』は、メイドロボを愛した人間がかかる病気だ。あかりには、何の係わり合いのない話だ。
「いえ、神岸さんの症状が、鋼鉄病に似ているという報告を受けたので、私が藤田君に教えたのですが、まだ鋼鉄病と判断されたわけでは。それに、今回の検査では、何の症状も見受けられなかったので、単なる似た症状が出ただけだと」
長瀬はそう言って説明するが、そう言えば、浩之はそれを長瀬に言っていないのを思い出した。
考えてみれば、ここ数日、俺も一生懸命だったような気もするしなあ。
問題以外のことに対して気を使う余裕がなかったような状況だから、仕方のない話だ。というより、浩之のそれは、問題にのめりこみすぎていたと言った方がいいだろう。
「あかりは、確かに『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』にかかってた。俺が保証する」
あかりの、浩之が訪れるまでの憔悴しきった顔は、それが普通の病気ではないことを物語っていたし、何より、あかりは完全にあてはまっていた。
「あかりは、俺の彼女という立場で、セリオを認めちまったんだ。後は、あかりの目標としてるものが、『人のためになる』だったからって悪条件が重なったからだな」
「浩之ちゃん、違うよ。私は浩之ちゃんの役に立ちたかったんだよ」
あかりは、てれることもなくそう言いきった。あかりにしてみれば、それだけ自然な行為なのだろう。
「まあ、あかりのたわごとは置いておいて、つまり、そういう悪条件が重なった結果、あかりは鋼鉄病にかかった。あかりから症状を聞いたが、ひどい頭痛だったみたいだな」
「それは『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』ではよくある症状です。私も、あかりさんは鋼鉄病にかかっていたと思います」
「かかっていた?」
長瀬は、その言葉のあやを目ざとく見つけた。
「ああ、あかりはもう治ったんだろ?」
「うん、とりあえず、頭痛はなくなったし、検査でも何も出なかったんでしょ?」
「……」
長瀬は黙った。そして、何かを考え込む。
あまりにもあっさりしすぎていたが、それは大変なことなのだ。そして、それに綾香は、悩む長瀬よりも先に行きついた。
「それって、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』が治ったの?」
「ああ、そうだな」
さんざん、不治の病だどうにもならないと言っていたわりには、浩之はあっさりとそう断言した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、確か、『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』って不治の病じゃあ……」
だからこそ綾香は、苦しむであろうセリオのことを考えて悩んでいたのだ。浩之が鋼鉄病にかかっていないのはわかったが、もし鋼鉄病が治せるのだったら、浩之が本当に鋼鉄病にかかっていたとしても、さして悩まなかったはずだし、セリオは苦しまなかったはずなのだ。
「少なくとも、今回のおかげで、一回は治ったってことになるよな」
浩之は、あかりとセリオに同意を求めた。
「うん、そうだね。でも、私の場合治った状況も、すごく限定されると思うんだけど」
「参考になるのかどうかは難しいと思います」
「そんなことはどうでもいい、治ったのなら、その方法を教えて欲しい!」
長瀬は、いつになくあせった口調で浩之に聞いた。
「ああ、まあ、一応多分これだ、と思う原因はあるんだけどさ、間違ってても知らないぜ」
「いいから!」
長瀬は浩之をせかす。すでにセリオはその呪縛から逃れることができたようだが、長瀬には残りの全てのメイドロボに対する責任があるのだ。
自分の子供のように愛情をかけて育てたメイドロボ達が、逃れることのできない不幸。それを、もしかしたら祓い取れるかもしれないのだ。
『鉄色の処女症候群(アイアンメイデンシンドローム)』が治るのならば、その身、滅んでもいいと思うほど、長瀬はそれを望んでいた。
「私が、浩之ちゃんに聞いたんです。『私と、セリオさん……どっちの方が、浩之ちゃんの役にたててる?』って」
その言葉に、長瀬と綾香は反応した。むしろ、セリオが反応しなかったのがおかしなぐらいだ。
人の役に立つことを一番の目的とするメイドロボの存在理由と、あかりはまっこうからぶつかっていた。
それは、むしろどちらを選ぶと浩之に聞くよりも、酷いことだった。
「あかり、それは……ちょっとシャレにならないわよ」
綾香は、あかりのことを高くかっていた。人の良さとか、心配りには、浩之に一番近い存在でも仕方ないか、とさえ思っていた。
だが、その質問は、あまりに心配りに欠けていた。むしろ、悪意さえ感じた。
「神岸さんは、セリオのことをよく知らないんだろう? でなければ、そんな質問はできないはずだ」
長瀬も、表情こそ落ち着いてはいるが、声はかなり硬くなっていた。その質問が、セリオをどれだけ傷つけるかと思うと、父親としては許せないことだ。
しかし、志保は、二人のようなことは思わなかった。
「何よ、聞いても別に普通じゃない、そんなこと。それにあかりなら、それを聞く権利は十分にあるわよ」
今まであかりは、浩之のために全てをささげて生きてきたのだ。役に立っているかどうか聞くぐらいの権利は当然ある。
志保は、それで浩之にほめてもらうことが、あかりには一番嬉しいのを知っているから。
「志保、言わなかった? メイドロボは、人のためになるために生きてるのよ? 自分の存在理由を、もし否定されたら、どうなるのよ」
存在理由の否定。あかりの方が役に立っているという言葉は、直にセリオの全てを否定することに繋がる。そして、浩之の答えによっては、セリオは、完全に否定される。
まさか、あかりがそんなことを聞くとは思ってなかった。
それは責められるべきこと。セリオを認めようとするならば、絶対にやってはいけないこと。そして、セリオを親友という綾香には、許せないことだ。
しかし、あかりは。
「ううん、私、知ってたよ。セリオさんが、私と同じで、浩之ちゃんの役に立ちたいと思ってること。それを、一番だと思ってること」
ほとんど話したことはなかったし、そう長い付き合いでもなかったが、あかりはそれを知っていた。同族の匂いをかぎわけたと言ってもいい。
それは、最初からそうであることができるというだけで、あかりと同じだったから。
「だったら、何でそんな酷いことしたのよ!」
綾香が、あかりに詰め寄る。普通の高校生なら、怖気づいてしまうようなプレッシャーだが、あかりは、それに一歩も退かなかった。
真面目な、というには少し語弊のある、しかし、何とも言えない表情で、あかりははっきと言った。
「それでも……」
あかりの、生きる目的のために。
「それでも、私は、浩之ちゃんの役に立ちたかったの」
続く