銀色の処女(シルバーメイデン)
まだ問題が全て解決されたわけではなかったが、当面の、浩之達の幸せを脅かす脅威は全て解決された。
浩之は、ソファーに身体をあずけて、大きなため息をついた。
綾香と長瀬、志保はもう帰った。今浩之と一緒にここにいるのは、あかりとセリオだけだ。
「さすがに疲れたの、浩之ちゃん?」
「ん? ああ、まあな」
浩之は生返事をして、セリオのついでくれたお茶を飲んだ。綾香が精神を癒すと言っておみやげに持ってきたハーブティーだ。確か、ベランダだったか、きっと違うのだろうがそんな名前だったような気がした。
……匂いがきつい。あまり精神が癒えるって感じはしないよな。
お茶を飲んだ目的は、精神を癒すためではなく、のどを潤すためだ。お茶の味などどうせ最初から判別などつかないのだから、まずくなければいいのだ。
「ラベンダーには精神をリラックスさせる効果があるといいます。疲労も取ってくれるでしょう」
おしい、ニアピンだな。
セリオの説明のハーブの名前は、よく似ているとも言えないでもなかった。
「……で、あかり。こんな時間だけど、帰らなくていいのか?」
「私がここにいたら邪魔?」
「別にそういうわけじゃねえけどさ……おばさんとか、心配しないのか?」
何せ、日が落ちるまでに家に帰らないことなどほとんどないあかりだ。すでに、日は沈みかけている。季節を考えると、これから早く日が落ちるようにはなるだろうが、それにしても、もうそれなりの時間だ。
「志保ならまだ遊びまわってる時間だけどさ、お前はもう家に帰る時間だろ?」
用事も終わったのだ。もうあかりが今日この家にいる必要はない。どうせ明日になれば、また朝に、そして学校で、多分帰りでも会うのだ。
浩之が淡白というわけでもないだろうが、そんなに長い間一緒にいたいとも思わなかった。まあ、今までずっと一緒に育ってきたのだ。飽きるぐらい一緒にいるのだから、別におかしなことでもないだろう。
ま、あかりは何かあると俺と一緒にいたがるけどな……
そういう意味では、あかりの方が積極的なのかもしれない。少なくとも、いちゃいちゃするのは、たまにはいいかなとは思うが、そういつもそんなことをする気は……少しはある。
しかし、その平和そうな浩之の考えも、次の言葉で崩壊した。
「大丈夫だよ、お母さん直々に今日は浩之ちゃんの家に泊まってきなさいって言われたから」
「ブッ!」
浩之は、思わず飲んでいたハーブティーを噴き出した。
「大丈夫ですか、浩之さん」
「浩之ちゃん大丈夫?」
二人は咳き込む浩之に心配そうに手を出すが、浩之はとりあえず二人の手を振り払っておいた。心配してくれるのはありがたいが、ここまで来るとうざったい気もしないでもない。
「あかり、てめえ、そんなことそのままうのみにしやがったのか!」
相手はあのひかりだ。年頃の娘を持つ母親とは思えない冗談を言ってくる可能性はかな高い。いや、むしろ確実と言ってもよかった。
「おばさんなら、んな危険な冗談も言ってくるよなあ」
「そうかな、多分、冗談じゃなかったと思うけど」
「……あのなあ、あかり」
浩之は疲れた顔であかりの肩をぽんと叩いた。
「どこの親が年頃の娘を男の一人住まいの家に泊まれって言ってくるんだよ」
「でも……お母さん、本気みたいだったよ。浩之ちゃんから、結婚の約束は取りつけたらしいし」
「あ……」
浩之は、そこでやっと自分がひかりに口を滑らせたことを思い出した。
すでに冗談として取ってもらうにははっきりと返事してはいたが……何も、こんな既成事実作るような行動しなくてもいいだろうに。
ひかりはひかりで、浩之をからかいたい気もしているのだろうが、それ以上に、あかりの幸せのために、その言葉を既成事実で固めて、取り消せないものにしようとしているのだが、はっきり言ってその方が何倍も面倒なことになるのは明白だった。
「……というわけで、浩之ちゃん、セリオさん、いいかな?」
「私はかまいませんが、私にはそれを許可する権限はありませんので、浩之さんだけに聞いてください」
セリオは、別に嫌な顔一つせずにそう言った。見方一つ変えれば、あかりはセリオにとって最大の恋敵なのだが、そんなことを感じるようなセリオではなかった。
だいたい、あかりとセリオ、二人を選んだのは、浩之なのだ。こういう状況を想定していなかったわけではないだろう。
……というのも酷な話だ。ひかりの無茶な強攻策を、浩之に予測しろと言う方が無理な話だ。
「あかり、お前、朝帰りなんかしたら俺やあかりが、ご近所からどう見られると思ってんだ」
「それについては、もう時すでに遅いと思われます」
無慈悲にセリオはそう言いきった。
「あかりさんが毎朝浩之さんを起こしていることは、すでに近所の方には全員知られていると思った方が無難だと私は思います。そうなれば、今更朝帰り程度で、噂が立つとは考えられません」
「……セリオ、お前、どっちの味方だ?」
まるであかりを援護するようなセリオの説明に、浩之はセリオを半眼でにらむが、セリオは表情一つ変えなかった。
「いえ、私は意見を言うまでで、どちらの味方でもありません。それをどうするかは、浩之さんが決めることです」
正論ではあるが、浩之には選べないということもあるのだ。
「浩之ちゃん、迷惑なら、帰るけど……」
あかりは、申し訳なさそうな顔でそう言ってきた。別にこう言えば浩之が泊めてくれるとか、そんなことを考えて言ったわけではない。純粋に、浩之の迷惑になるのは嫌なのだ。機会ならいくらでもあるし、一緒にいれないのはさびしいが、それも仕方ないとも思う。
だが、それが確信犯であろうと、そうでなかろうと、浩之はそう言われればむげに断るわけにもいかないのだ。
「迷惑じゃねえよ、当然。俺だってあかりが泊まっていくのは嬉しいけどさ」
だからと言って、このどうしようもない状況に身を投じてもいいものか、浩之とて迷うことはあるのだ。その状況は、普通ならおかしいことをよくわかっているのだから。
「何て言うかな、確かに、俺がセリオとあかり、二人を、一人に絞らずに選んだのは間違いないし、間違ってもないと思ってる。でもさ、やっぱり、ちょっとは気が退けるんだよな」
「うん、言いたいことはわかるよ」
「私は、気にするほどのことではないと思うのですが」
あかりとセリオの意見の違いは、個性の違いというよりは、立場の違いだろう。後は、どれだけ浩之を理解しているか、そういう違いもあるかもしれない。
「で、泊まるってことは、つまり、そういうことだろ。俺も、多分覚悟はしないといけないとは思ってるんだけどさ、まだ踏ん切りがつかないわけだ」
自分で選んでおいて、それで後で迷ってしまう、そいうのも、やはり普通のこと。浩之にも、独占欲と、それに続くように独占されたい気持ちもあるということだ。
あかりは、ちょっと顔を赤らめてから言った。
「お母さんは、そういうのを望んでるみたいなこと言ってたけど、私は……ゆっくりでいいと思うな。最低でも、浩之ちゃんがほんとに望むまでは、待ってもいいと思う」
求められれば、あかりは少しだって迷う気はなかった。そのために、あかりはここにいるのだ。そして、その行為は、あかりにとって喜びであって、悲しみには繋がらない。
求める相手が浩之ならば、あかりは、その身全てを捧げるつもりだ。それが、無償の献身というわけでなく、自分の希望であっても。
「……ああ、そうだよな。俺も、急ぐ気はない。ゆっくりと……まあ、今までの長い付き合いがあったんだ、これ以上ゆっくりできるかって話もあるけどな、ゆっくりとやっていくか」
浩之は、あかりの手を取った。あかりのほほが、もっと赤くなる。恥ずかしさというよりは、嬉しさしかないのだろうが。
「うん、ゆっくりと……3人で」
そして、浩之はセリオの手も取った。セリオは、浩之と、あかりの間を流れる感情に心地よさを感じ、そして、浩之と、あかりから自分に流れてくる気持ちに、やはり言いようのない幸せを感じた。
「……はい、ありがとうございます」
微笑みとは、ごく自然に出るものだ。経験を必要とするが、出るときは、別に出したいと思わなくても、勝手に顔が微笑む。
そんな普通のことが、自分には今までできていなかったことに、セリオは悔しささえ感じた。
鉄色から解放された銀色の、自然な微笑みに、またそれを見た二人も微笑んだ。
続く